近代五輪を振り返るシリーズ4(1964年東京オリンピック)

近代五輪を振り返るシリーズ4(1964年東京オリンピック)

近代五輪を第一回から振り返っていきます。

 

四回目となる今回は1964年の第18回東京オリンピックを振り返ります。

 

 

1964年 第18回 東京オリンピック

 

1940年夏季大会の開催権を返上した東京は、連合国軍による占領を脱した2年後の1954年に1960年夏季大会開催地に立候補します。

 

しかし、翌1955年の第50次IOC総会における投票でローマに敗れました。

 

次に1964年夏季大会開催地に立候補し、1959年5月26日に西ドイツのミュンヘンにて開催された第55次IOC総会においてデトロイト、ウィーン、ブリュッセルを破り開催地に選出されました。

 

 

日本及びアジア地域で初めて開催されたオリンピックで、当時は「有色人種」国家における史上初のオリンピックという意義を持っていました。

 

また、アジアやアフリカにおける植民地の独立が相次いだこともあり、過去最高の出場国数となります。

 

歴史的には、1952年のヘルシンキ(フィンランド)、1960年のローマ(イタリア)に続いて旧枢軸国の首都で開催されたオリンピックでもあり、第二次世界大戦で敗戦したものの、その後急速な復活を遂げた新日本が、再び国際社会の中心に復帰するシンボル的な意味もありました。

 

 

聖火はアテネ(ギリシャ)、イスタンブール(トルコ)、ベイルート(レバノン)、テヘラン(イラン)、ラホール(パキスタン)、ニューデリー(インド)、ラングーン(ビルマ)、バンコク(タイ)、クアラルンプール(マレーシア)、マニラ(フィリピン)、香港(当時はイギリス領)、台北(中華民国台湾)、沖縄(当時はアメリカ合衆国の統治下)と、第二次世界大戦で日本軍が、それらの地域を植民地として支配していたヨーロッパ諸国やアメリカの軍隊と戦った地域を通り、平和のための聖火リレーを印象づけます。

 

聖火の最終ランナーは、1945年8月6日に広島県三次市で生まれた19歳の陸上選手・坂井義則(当時早稲田大学競走部所属、後にフジテレビ社員)でした。

 

原爆投下の日に広島市に程近い場所で生を享けた若者が、青空の下、聖火台への階段を駆け上る姿はまさに日本復興の象徴でありました。

 

抜けるような青空の秋晴れの下で行われた開会式。

 

選手宣誓は日本選手団の小野喬主将が行いました。

 

平和の象徴、鳩が放たれ、君が代が流れた後、上空にブルーインパルスが五輪の輪を描きました。

 

開会宣言の前にIOCのブランデージ会長が片言の日本語で「開会宣言を天皇陛下にお願い申しあげます」と述べた後、昭和天皇が開会宣言を行いました。

 

 

日本選手団最初のメダルは10月11日の重量挙げバンタム級で一ノ関史郎が銅メダルを獲得。

 

金メダル第一号は翌10月12日の重量挙げフェザー級で優勝した三宅義信でした。

 

日本は今大会で過去最多となる16個の金メダルを獲得。

 

レスリングでは市口政光、花原勉、上武洋次郎、渡辺長武、吉田義勝が優勝し、金メダルを5個獲得する大活躍。

 

体操ではつり輪の早田卓次、跳馬の山下治広、個人総合と平行棒で遠藤幸雄、そして団体で金メダルを獲得し、体操も金メダルを5個獲得。

 

日本選手団主将となった小野喬は団体での金メダルを加え、五輪で獲得したメダルの数を13個まで伸ばします。

 

これは日本人の最多五輪メダル獲得数であり、2020年現在でも破られていません。

 

また小野喬の奥さん、小野清子も団体で銅メダルを獲得しており、夫婦揃ってのメダル獲得となりました。

 

 

マラソンでは円谷幸吉が今大会唯一の陸上競技のメダルとなる銅メダルを獲得。エチオピアのアベベ・ビキラがオリンピック2連覇を達成します。

 

今大会から新種目となった柔道とバレーボールでも日本勢は活躍。

 

柔道では軽量級の中谷雄英、中量級の岡野功、重量級の猪熊功が金メダルを獲得し、無差別級の神永昭夫はオランダのアントン・ヘーシンクに敗れるものの銀メダルを獲得。

 

バレーボールでは男子が銅メダル、そして東洋の魔女と呼ばれた女子が金メダルを獲得。

 

10月23日夜、女子バレーボール決勝戦のTV視聴率は85%にも達したといわれています。

 

日本の金メダル獲得数16はアメリカ、ソビエトについで3位となりました。

 

 

閉会式では各国の選手団が国立競技場に入る前に国別に整列し入場を待つ予定であったものの、全ての競技を終えてリラックスした各国の選手団が係員の指示に従わず、その結果入り乱れたままになって、そのままで閉会式になだれ込むような形になります。

 

様々な国の選手が入り混じり腕や肩を組み合い入場する姿が却って「平和の祭典」を体現した和気あいあいとした雰囲気のものとなり、その後のオリンピックではこの「東京式」が採用されるようになりました。

 

また、10月10日の東京オリンピック開会式にイギリス領北ローデシアとして参加したザンビアは、閉会式の日にイギリスから独立し、新国名のプラカードと新国旗を手に入場行進を行います。

 

入場行進が終わってからオリンピック憲章に従い、オリンピック発祥の地ギリシャ・日本・次回開催国メキシコの国旗が国歌の演奏とともに掲揚され、安川第五郎大会組織委員会会長の挨拶、そして、アベリー・ブランデージ国際オリンピック委員会会長が閉会の宣言をし、そして東京オリンピック賛歌の合唱とともに聖火が静かに消えていきました。

 

やがて、蛍の光が流れて女子大生たちが持つ松明の火が点々と帯のように灯され、電光掲示板に「SAYONARA(さよなら)」「WE MEET AGAIN IN MEXICO(メキシコでまたお会いしましょう) 1968」と表示されます。

 

この後、再びオリンピックマーチが流れて、各国選手団はまた賑やかにお祭り騒ぎのように陽気に踊りながら、競技場を去って行き、観客たちはしばらく夜空に打ち上げられた花火を見ながら興奮の余韻に浸っていました。

 

 

東京オリンピックの成功は日本にとって計り知れないほど大きな恩恵をもたらします。

 

東京オリンピック招致の成功は、開催に先駆けて1964年4月28日に経済協力開発機構 (OECD) への加盟が認められる大きな背景となりました。

 

OECD加盟は原加盟国のトルコに次いでアジアで2番目、同機構の原型となったマーシャル・プランに無関係の国家としては初めてで、戦前は「五大国」の一国であった日本が敗戦を乗り越え、再び先進国として復活した証明の一つともなりました。

 

東京オリンピック開催を契機に、競技施設や日本国内の交通網の整備に、多額の建設投資が行なわれ、競技や施設を見る旅行需要が喚起され、カラー放送を見るためのテレビ受像機購入の飛躍的増加などの消費も増えたため、日本経済に「オリンピック景気」といわれる好景気をもたらします。

 

特に開催地の東京では、開催に向けて競技施設のみならず、帝都高速度交通営団・東京モノレール羽田空港線・首都高速道路・ホテルなど、様々なインフラストラクチャーの整備が行なわれ、東海道新幹線も開会式9日前の10月1日に開業。

 

これらのほとんどは、現在に至るまで改良やメンテナンスを重ねながら利用されており、首都のインフラを支え続けています。

 

 

 

 

 

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