近代五輪を振り返るシリーズ5(第21回モントリオールオリンピックまで)

近代五輪を振り返るシリーズ5(第21回モントリオールオリンピックまで)

近代五輪を第一回から振り返っていきます。

 

5回目となる今回は東京オリンピック後のメキシコオリンピックからモントリオールオリンピックまでを振り返ります。

 

 

1968年 第19回 メキシコオリンピック

 

海抜2,240メートルに位置するメキシコシティーで開催された大会です。

 

開催に先立ち、1968年2月2日にIOC総会において当時アパルトヘイト政策を行なっていた南アフリカの参加を認める決議が行われます。

 

これに抗議してアフリカ諸国26カ国が出場ボイコットを発表し、ソ連、共産圏諸国も同調し合計で55カ国がボイコットを表明。

 

これを受けて同年4月21日に決議を変更して南アフリカの参加を認めないこととし、ボイコットは回避されます。

 

 

開会式では前回の大会開催地の東京の美濃部亮吉知事が出席し、オリンピック旗をメキシコ市長に引き継ぎました。

 

聖火リレーの最終ランナーはエンリケタ・バシリオ・デ・ソテロが務めます。聖火リレーの最終ランナーとしては史上初の女性でした。

 

空気の薄い高地ということもあり、陸上では好記録が続出。三段跳では、3人の選手が世界記録を五度塗り替えます。

 

男子100mでは人類で初めて10秒の壁を切った男、ジム・ハインズが決勝でも9秒95で優勝。

 

これは人類初の電動計時による9秒台の達成という歴史的なレースとなりました。

 

走高跳ではディック・フォスベリーが背面跳びで金メダルを獲得。これを機に背面飛びが世界中で普及します。

 

陸上競技男子200mの表彰式では、アメリカの黒人選手トミー・スミス(金)とジョン・カーロス(銅)がブラックパワーの象徴である黒手袋を掲げます(ブラックパワー・サリュート)。IOCは両者に対し、永久追放処分としました。

 

 

女子の体操競技に出場したチェコスロバキアのベラ・チャスラフスカが女子個人総合、床、段違い平行棒、跳馬で金メダルを獲得。

 

アメリカのデビー・メイヤーは競泳初の個人3種目制覇(200、400、800メートル自由形)を成し遂げます。

 

後にモハメド・アリとキンシャサの奇跡で戦うことになるジョージ・フォアマンも今大会のヘビー級で金メダルを獲得。

 

一方でドーピング検査採用後、違反者第1号も誕生。近代五種に出場したスウェーデンのハンス=グンナー・リリエンヴァルでした。

 

 

日本は体操で男子団体で3連覇したほか、男子床運動での表彰台独占をはじめ個人種目も席捲します。

 

日本人最多金メダルを獲得することになる加藤澤男は個人総合と床で金メダル。

 

中山彰規はつり輪、平行棒、鉄棒で3つの金メダルを獲得します。

 

マラソンでは君原健二が2位で銀メダルを獲得。3連覇を狙ったエチオピアのアベベは棄権となり、金メダルは同じくエチオピアのマモ・ウォルデでした

 

ウエイトリフティングでは三宅義信が金メダルを獲得。

 

レスリングでは宗村宗二、金子正明、上武洋次郎、中田茂男が金メダルを獲得。

 

またサッカーにおいて、日本が銅メダルを獲得。アジア勢としては初の同種目でのメダルで、釜本邦茂は6試合で7ゴールを決め得点王となります。

 

今大会日本の金メダル獲得数は11個となり、前回東京五輪に続き、アメリカ、ソビエトに次ぐ3位となりました。

 

 

1972年 第20回 ミュンヘンオリンピック

 

第二次世界大戦後としてはドイツ初となるオリンピック開催であり、当時は分断国家であった東ドイツと西ドイツの相互承認と国際連合への同時加盟を間近に控えていた時期でもありました。

 

しかしオリンピック史上最悪の悲劇といわれるミュンヘンオリンピック事件が発生してしまいます。

 

会期中の9月5日、パレスチナのゲリラが選手村のイスラエル選手宿舎を襲撃。

 

イスラエル選手団のレスリングコーチとウエイトリフティングの選手を殺害した後、9人を人質にします。

 

救出は失敗し、銃撃戦の末、人質9人全員とゲリラ5人、警官1人が死亡する大惨事となってしまいました。

 

 

競技では前回除外された柔道とバレーボールが正式競技として再び復活。

 

日本の男子バレーボールは準決勝の対ブルガリア戦でセットカウント0-2からの奇跡の逆転劇を演じ、金メダルを獲得。

 

柔道では川口孝夫、野村豊和、関根忍が金メダルを獲得。

 

レスリングでは加藤喜代美と柳田英明が金メダルを獲得。

 

競泳でも女子100mバタフライの青木まゆみと男子100m平泳ぎの田口信教が金メダルを獲得。

 

競泳ではマーク・スピッツ(アメリカ)が、出場した全種目(自由形100m・200m、バタフライ100m・200m、リレー400m・800m、メドレー400m)において全て世界記録で優勝し、7個の金メダルを獲得。

 

北京オリンピックでマイケル・フェルプスが8個の金メダルを獲得するまでは、1大会で獲得した最多金メダル記録でした。

 

 

また今大会は日本男子体操が最も強さを誇った大会でもあります。

 

全8種目24個のメダルのうち、16個を日本が獲得。団体では、1960年ローマ・1964年東京・1968年メキシコに続いて4連覇。

 

個人総合と鉄棒と平行棒では金銀銅メダルを独占します。

 

鉄棒金メダルの塚原光男が開発した「月面宙返り」は、以後世界の体操界で長年使用される革命的な技となります。

 

加藤澤男は団体、個人総合、平行棒で金メダルを獲得し、個人での五輪金メダル獲得数を6個まで伸ばします。

 

 

男子バスケットボール決勝(アメリカ対ソ連)では、この種目の採用以来無敗を誇ったアメリカが終了間際に逆転され、初めて敗れる波乱が起きます。

 

ソ連が逆転に成功した、試合時間残り3秒からのプレイの中断と再開及びそのやり直し(タイムを戻してのリプレイ)という一連の処置を不服としたアメリカチームは、表彰式の出場と銀メダルの受取を拒否しました。

 

アメリカが受け取りを拒否した銀メダルは今もミュンヘン市役所の金庫に眠っているそうです。

 

 

1976年 第21回 モントリオールオリンピック

 

1974年の第75回IOC総会でオリンピック憲章からアマチュア条項を削除してから、初めての夏季オリンピックとなります。

 

当初の予算は3億2000万ドルの予算でしたが、オイルショックが発端になった物価高騰で最終的には約13億ドルにも達しました。

 

そのため、膨大な赤字を計上し、モントリオール市ではその後何十年ものあいだ、返済のために税金が使われることとなります。

 

商業化が著しくなってゆく端緒となった大会とも言われます。

 

また、人種差別問題など、国際的な政治問題の続発で参加国が激減。116の国と地域がエントリーしたものの、最終的には92の国と地域の参加にとどまりました。

 

 

競技では体操女子でルーマニアのナディア・コマネチが注目を集めます。10点満点を連発し、日本でも大人気となります。

 

女子競泳では、東ドイツのコルネリア・エンダーが金メダル4個、銀メダル1個を獲得する大活躍。

 

大会のメイン競技である陸上競技と競泳ではアメリカの不振が目立ちました。

 

特にお家芸である陸上競技、競泳の女子個人種目では金メダルなしの惨敗。

 

アメリカに代わり台頭したのが東ドイツであり、中でも女子競泳では個人種目において11種目中10種目で金メダルを獲得する大躍進でした。

 

東ドイツは夏季オリンピック大会としては初めてアメリカを抜いて、ソ連に次いで2番目の金メダルを獲得。

 

近代オリンピックの第1回大会から参加しているアメリカが夏季大会の金メダル獲得数で3位に転落するのは初のことでした。

 

また、フェンシング男子フルーレ団体では2020年現在のIOC会長であるトーマス・バッハ氏が出場し、金メダルを獲得しています。

 

 

日本は男子体操団体で5連覇を達成。

 

加藤澤男が平行棒、塚原光男が鉄棒で金メダルを獲得し、加藤澤男は8個目の五輪金メダルとなります。

 

これは2020年現在でも日本人最多金メダル獲得記録となっています。

 

しかし加藤が3連覇を狙った個人総合ではソ連のアンドリアノフが優勝。アンドリアノフは今大会4つの金メダルを獲得します。

 

レスリングでは伊達治一郎と高田裕司が金メダルを獲得。

 

柔道では園田勇、二宮和弘、上村春樹が金メダルを獲得。

 

また女子バレーボールも東京五輪の東洋の魔女以来の金メダルを奪還します。

 

日本の金メダル獲得数は9個。ソビエト、東ドイツ、アメリカ、西ドイツに次ぐ5位となりました。

 

 

 

 

 

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