近代五輪を振り返るシリーズ6(第24回ソウルオリンピックまで)

近代五輪を振り返るシリーズ6(第24回ソウルオリンピックまで)

近代五輪を第一回から振り返っていきます。

 

6回目となる今回はモスクワオリンピックからソウルオリンピックまでを振り返ります。

 

 

1980年 第22回 モスクワオリンピック

 

共産圏、社会主義国では初の開催となったオリンピックです。

 

しかし前年1979年12月に起きたソ連のアフガニスタン侵攻の影響を強く受け、ボイコットが続出する大会になります。

 

冷戦でソ連と対立するアメリカ合衆国のカーター大統領が1980年1月にボイコットを主唱し、日本、分断国家の西ドイツや韓国、ソ連と対立関係にあった中華人民共和国やイラン、サウジアラビア、パキスタン、エジプトらイスラム教国など50カ国近くがボイコットを決めます。

 

一方で西欧・オセアニアの西側諸国の大半、イギリス、フランス、イタリア、オーストラリア、オランダ、ベルギー、ポルトガル、スペインなどは参加した。

 

イギリスではボイコットを指示した政府の後援を得られず、オリンピック委員会が独力で選手を派遣しました。

 

 

日本は1980年2月に前月のアメリカからの西側諸国への要請を受け、日本国政府は大会ボイコットの方針を固めます。

 

一方、日本オリンピック委員会 (JOC) は大会参加への道を模索しました。

 

1980年4月。日本国政府の最終方針としてボイコットがJOCに伝えられましたが、多くの選手はJOC本部で大会参加を訴えました。

 

しかし1980年5月24日。JOC総会の投票(29対13)でボイコットが最終的に決定されました。

 

なお、この採決は挙手によるもので、伊東正義官房長官(当時)も出席しており、各競技団体の代表者には、参加に投票した場合には予算を分配しないなどの圧力がかけられていました。

 

1980年6月11日。JOC常任委員会はモスクワ五輪日本選手団(幻のメンバー)を承認し、同時に大会への不参加を確認します。

 

 

競技では西側諸国の多くがボイコットした事で、大会は東側諸国のメダルラッシュとなります。

 

キューバを含めた東側諸国の経済協力機構であるコメコン加盟国全体では161個と、全204個の金メダルのうち79%を占めました。

 

特にソ連は自国開催の強みを最大限に発揮し、元来の得意種目の重量挙げや射撃に加えアメリカが不参加の競泳や陸上、日本が不参加の男子体操やバレーボールで順調に金メダルを獲得しました。

 

金メダル80個はロサンゼルスオリンピックでのアメリカの83個に次いで、一つの大会での2番目の獲得記録となっています。

 

体操競技に出場したソ連のアレクサンドル・ディチャーチンは金3個、銀4個、銅1個のメダルを獲得。これはアテネオリンピックのマイケル・フェルプスと並ぶ、個人の一大会最多獲得メダル記録です。

 

女子カヤックに出場した東ドイツのビルギット・フィッシャーは今大会が初の金メダル。フィッシャーはこの後もオリンピックに出場し続け、2004年のアテネオリンピックまで金メダルを取り続けます。

 

最終的にフィッシャーは8個の金メダルを獲得することになります。

 

 

1984年 第23回 ロサンゼルスオリンピック

 

ロサンゼルスでは2度目の開催となります。

 

この大会は税金を1セントも使わず開催されました。テレビ放映料、スポンサー協賛金、入場料収入、記念グッズの売上などにより開催費用を全て賄い、最終的にはおよそ400億円の黒字で終了。

 

その全額がアメリカの青少年の振興とスポーツのために寄付され、この大会の成功が、その後の五輪に影響を与える商業主義の発端となりました。

 

一方で東側諸国は前回モスクワ五輪でボイコットされたことに報復するようにボイコットを決めます。

 

 

競技ではソ連・東欧圏の選手が出場しなかった結果、射撃の蒲池猛夫(日本)、体操女子個人総合のレットン(アメリカ)など、幾つかの競技で、それまでメダルに縁の無かった国に金メダルをもたらしました。

 

特にレットンの金メダル獲得はアメリカで体操のブームを呼び、多くの子供達が体操競技を始めた結果、のちの体操競技におけるアメリカ勢の躍進の原動力となります。

 

また、「女子選手には危険過ぎる」との理由で長年開催されていなかった女子マラソンがこの大会から公式競技となりました。ジョーン・ベノイトが初代女王に輝きます。

 

陸上ではカール・ルイスが4冠を達成。

 

日本はレスリングで宮原厚次と富山英明が金メダルを獲得。

 

体操男子では、具志堅幸司が個人総合で金メダル。森末慎二が鉄棒で10点満点を出して金メダルを獲得します。

 

柔道では細川伸二、松岡義之、斉藤仁、山下泰裕が金メダルを獲得。

 

山下泰裕は2回戦で足を怪我しながらも優勝。決勝で対戦したラシュワンは表彰台の中央に上ろうとする山下に足を気遣って手を差し伸べ、友情の証として世界から評価されました。

 

またラシュワンは、山下の右足を狙わなかったという主旨の発言をしたことから、そのフェアプレーの精神を称えられました。

 

山下泰裕は大会後に国民栄誉賞を受賞しました。

 

日本は金メダルを10個獲得。

 

アメリカは221種目中83個の金メダルを獲得し、これは1大会の最多金メダル獲得記録となっています。

 

 

1988年 第24回 ソウルオリンピック

 

韓国で初めて開催されたオリンピックになります。

 

第二次世界大戦後に建国された新興国で初めて開催されたオリンピックであり、1964年東京オリンピックに続きアジアにおける2度目の夏季オリンピックとなりました。

 

朝鮮戦争で荒廃し、北朝鮮との分裂国家となった韓国が、経済的に復興した象徴的な出来事として捉えられます。

 

モスクワとロサンゼルスのボイコット合戦も集結し、12年ぶりにアメリカとソ連の二大国が揃った大会になります。

 

そしてその後の冷戦終結とソ連解体によって、この大会はソ連とほとんどの東側諸国にとって最後の参加となりました。

 

またモスクワ・ロサンゼルス両方をボイコットしたイランも12年ぶりに参加しました。

 

 

競技ではテニスと卓球が正式競技として採用され、テニスは1924年パリオリンピック以来64年ぶりの復活となりました。

 

また女子柔道、野球、テコンドーが公開競技として開催されます。

 

陸上男子100メートルではカナダのベン・ジョンソンが9秒79の驚異的な世界記録で優勝。

 

しかしそれから2日後、ジョンソンのドーピングが発覚し、金メダル剥奪、記録抹消という事態になります。

 

女子ではアメリカのフローレンス・ジョイナーが陸上競技女子100メートル、200メートル、400メートルリレーで優勝。

 

男子棒高跳びではソ連の鳥人、セルゲイ・ブブカが金メダルを獲得。

 

霊長類最強の男と呼ばれたソ連のアレクサンドル・カレリンはグレコローマンレスリング130 kg級で初の五輪金メダルを獲得。

 

 

ボクシングではオリンピックの黒歴史に数えられる「盗まれた金メダル事件」が発生。

 

ボクシング競技ライトミドル級決勝でアメリカのロイ・ジョーンズ・ジュニアが、地元・韓国の朴時憲から2度のダウンを奪うなど相手を圧倒しながら2-3の不可解な判定で敗れます。

 

記者会見でジョーンズ・ジュニアが「盗まれた金メダルを返してくれ!」と涙ながらに訴えました。

 

後に調査によって審判員5人の内、朴の勝利とした3人が韓国側によって買収されていたことが判明。

 

IOCの会長からジョーンズ・ジュニアには金メダルのレプリカが与えられました。

 

なお、この事件はアマチュアボクシングの採点システムが変更されるきっかけとなりました。

 

 

日本ではレスリングで小林孝至と佐藤満が金メダルを獲得。

 

小林孝至は帰国後に獲得した金メダルを上野駅構内の公衆電話にセカンドバッグごと置き忘れて紛失して話題となりました。

 

柔道では斉藤仁が今大会唯一の柔道の金メダルを獲得し、お家芸・日本の威信を一人で守り抜きます。

 

競泳では鈴木大地が男子100m背泳ぎで金メダルを獲得。

 

バサロキックを得意とし「黄金の足を持つ」と言われました。

 

当時日本競泳界は冬の時代にありましたが、1972年ミュンヘンオリンピックの青木まゆみ・田口信教以来16年ぶりの金メダル獲得(メダルとしても16年ぶり)の快挙となり、日本の競泳を復活させる大きな切っ掛けになります。

 

古橋廣之進(当時、日本水泳連盟会長)は、鈴木の金メダルに「もう一度日本の水泳を復活させたい」と涙したそうです。

 

 

 

 

 

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