近代五輪を振り返るシリーズ1(第5回ストックホルム五輪まで)

近代五輪を振り返るシリーズ1(第5回ストックホルム五輪まで)

近代五輪を第一回から振り返っていきます。

 

初回は第一次世界大戦前までの第5回ストックホルム五輪までを振り返ります。

 

 

1896年 第1回 アテネオリンピック

 

近代オリンピック競技大会の第一歩となる記念すべき大会は、古代オリンピックの故郷・ギリシャのアテネで開催されました。

 

当時のギリシャは国内の経済問題などを抱えており、開催の決定は難航しましたが、国際オリンピック委員会(IOC)の会長に就任したギリシャ人のデメトリウス・ビケラスや事務局長に就任したクーベルタンらの努力が実を結び、計画通りにギリシャで開催できることになったのです。

 

大会参加者は男子のみでした。

 

 

実施された競技は、陸上、水泳、体操、レスリング、フェンシング、射撃、自転車、テニスの8競技43種目。ヨットも予定されていましたが、悪天候のため中止になりました。

 

また、ウエイトリフティングが行われていますが、このときは体操の一種目として実施されました。

 

近代オリンピック最初の競技は、陸上競技100mの予選で、全部のレースでアメリカ選手が1位になります。

 

優勝したアメリカのトーマス・バーグがただ1人クラウチング・スタートをして注目を集めました。

 

 

花形の陸上競技で優勝者がないまま最終日のマラソンを迎えたのは地元ギリシャ。

 

ギリシャの故事にちなんで設定されたマラトンからパンアテナイ競技場までの約40キロのコースでのマラソンには、25人の選手が出場しました。

 

25人のうち半分以上は地元ギリシャの選手でしたが、序盤から中盤にかけてギリシャの選手はトップに立つことができず、応援に詰めかけた観衆に失望の色が濃くなりかけたころ、残り7キロの地点でついにギリシャのスピリドン・ルイスがトップに立ちます。

 

ルイスはトップのまま競技場に入り、興奮して貴賓席から飛び出したコンスタンチノス皇太子、ジョージ親王らに伴走されながら、2時間58分50秒の記録で優勝を果たしました。

 

羊飼いの仕事をしていたルイスは、この優勝で一躍ギリシャのヒーローとなりました。

 

 

財政事情により、第1回オリンピックでは金メダルは無く、優勝者には銀メダル、第2位の選手には銅メダルが贈られ、第3位の選手には賞状が授与されます。

 

また、当時は国家単位ではなく個人名義による自由出場だったため、国混合チームが出場していました。

 

日本はまだ参加していません。

 

 

1900年 第2回 パリオリンピック

 

ギリシャはオリンピックは自分たちの国技であると主張しましたが、IOCは毎年異なる場所でオリンピックを行うことを決定します。

 

また、この大会は万国博覧会の附属大会として行われたため、会期が5か月に及ぶことになりました。

 

そのため大会運営も混乱をきたし、メダルが与えられたのは、クーベルタンが運営に関わった陸上競技のみで、このメダルが実際に選手に届いたのは2年後になってしまったそうです。

 

 

ボート競技で決勝に進出したオランダの選手(ペア)は、スタート直前になってフランス人の男の子に「コックス」役を頼んでそのまま出場。見事に優勝を遂げました。

 

この男の子は7歳とも10歳だったともいわれていて、オリンピック史上最年少の金メダリストとなります。

 

しかし残念なことに、競技運営がしっかりしていなかったため、正確な年齢や名前などの記録は残っていません。

 

また、この大会から女子選手も参加。

 

初めての女性金メダリストになったのは、テニス・シングルスで優勝したイギリスのイギリスのシャーロッテ・クーパー。

 

彼女はウインブルドンで5回の優勝を誇る名テニスプレーヤーでした。

 

 

1904年 第3回 セントルイスオリンピック

 

オリンピック史上初めて、北米大陸で開催されましたが、この大会も前回同様に万国博覧会の付属大会として開催されました。

 

北米大陸の内陸部にあるセントルイスまでの交通難、さらに同年の日露戦争勃発による国際関係の緊迫化などを理由に、ヨーロッパ勢は大幅に参加国が減少します。

 

その結果、91種目中42種目ではアメリカ以外の参加者が不在で行われ、金メダル数でも全96個中アメリカが78個を獲得して、近代オリンピックでは空前絶後の独占率となります。

 

また多くの競技種目見直しが行われ、クリケット、クロッケー、セーリング、バスクペロタ(ハイアライ)、馬術、ポロ、ラグビーなど欧州で盛んな競技が外された一方、アーチェリー、綱引、ボクシング、ラクロス、ロック(クロッケーの北米版)が導入されました。

 

 

マラソンではオリンピック史に残る不名誉な事態、キセル・マラソン事件が発生していまいます。

 

アメリカのフレッド・ローツは高温と疲労のため20キロ過ぎで道に倒れ、たまたま通りかかった自動車に乗せてもらい競技場に戻ることになります。

 

ところが競技場に向かう途中で車がエンストで止まってしまい、そこから再び走り出してゴールしてしまったのです。

 

1着でゴールしましたが、ゴール直後に車の運転者の告発により即座に不正が発覚し優勝は取り消されます。

 

なお代わって優勝したヒックスのタイム、3時間28分53秒は五輪史上最も遅い優勝記録です。

 

また、このときヒックスは興奮剤入りのブランデーを飲んで走っており、現在のルールではドーピング違反となりますが、当時はドーピングに対する明確な禁止規定は無かったため、ヒックスの優勝は現在も公式に認められています。

 

 

1908年 第4回 ロンドンオリンピック

 

1908年大会は本来、ローマ(イタリア)で開催される予定でしたが、1906年にイタリアのヴェスヴィオ山が噴火し、その被害がローマにも出たため、急遽ロンドンでの開催となります。

 

また、今大会からオリンピックへの参加が各国のオリンピック委員会を通して行われるようになりました。

 

パリ、セントルイスと続いた万国博覧会付属の大会から脱却し、参加者も増加。

 

22の国と地域から1999人の選手が参加、23競技110種目が行われました。

 

初めて国旗を先頭にした入場行進が行なわれたのもこの大会です。

 

 

会期は約5ヶ月と長いものの、多くの競技は7月に集中して行われました。

 

会期末の10月にはスケートも開催されています。スケートが初めて五輪で行われたのは夏季五輪だったんですね。

 

マラソンは、国王の住むウィンザー城からシェファードブッシュ競技場の約40kmで行われました。

 

この際、時の王妃アレクサンドラが、「スタート地点は宮殿の庭で、ゴール地点は競技場のボックス席の前に」と注文したために42.195kmという半端な数字になったとする逸話があります。

 

 

この大会ではホスト国で世界に君臨していたイギリスと急速に国力を伸ばしていたアメリカがお互いをライバル視し、険悪なムードが漂っていました。

 

こうした状況を危惧したペンシルベニア大司教(アメリカ選手団に随行していた)のエセルバート・タルボットは、「オリンピックにおいて重要なのは勝利することよりむしろ参加したことであろう」と説教で語り、これを知ったクーベルタンはオリンピック精神の表現としてこの言葉を引用するようになりました。

 

「オリンピックは参加することに意義がある」という言葉はこの大会で生まれたのです。

 

 

日本選手はまだ参加していませんが、観戦者としてはこの大会から日本人の参加が記録に残っています。

 

相嶋勘次郎(大阪毎日新聞通信部長)、岸清一、永井道明の3人です。

 

相嶋は海外派遣員記者として赴き、同時開催の英仏博覧会を見物したついでにオリンピックを観戦して記事を執筆しました。

 

岸は当時イギリスに出張中で、永井は欧米留学中でした。

 

永井は帰国後、大日本体育協会の創立委員となり、委員の中で唯一オリンピックを見た者として活躍。

 

岸も後に大日本体育協会に関与し、嘉納治五郎に次ぎ2代目の会長となりました。

 

 

1912年 第5回 ストックホルムオリンピック

 

今大会は初めて日本人選手がオリンピックに参加しました。アジアの国で初めての参加でもあります。

 

1909年5月、クーベルタンからの呼びかけによって嘉納治五郎(当時、東京高等師範学校校長)がアジアで初めてのIOC委員に就任。

 

ストックホルム大会への参加に向けて、1911年7月10日に大日本体育協会を設立します。

 

1911年11月18日、19日には日本で初めて国内選考会が開催され、短距離で優勝した東京帝国大学の三島弥彦と、マラソンで世界最高記録を作って優勝した東京高等師範学校の金栗四三の2人を日本代表としてストックホルム大会に参加します。

 

この時の日本の入場行進時のプラカード表記はオリンピック史上、唯一「NIPPON」でした(以降のオリンピックは全て「JAPAN」という表記)。

 

しかし世界の壁は厚く、三島は外国人選手との体格差の前に100メートル、200メートルともに予選最下位。400メートルは予選通過したものの疲労のため準決勝を棄権しました。

 

 

金栗は炎天下のレースにもかかわらず外国人選手の無理なペースに合わせて走ったために32キロ過ぎに日射病で倒れてしまって行方不明扱いに。

 

またポルトガル代表のフランシスコ・ラザロも競技中に脱水症状により意識を失い、その翌日に死去してしまいます。

 

近代オリンピック以後、オリンピック競技で初めて死者が出た事例となってしまいました。

 

 

金栗はゴールをしないまま帰国し、時は54年が経過。

 

1967年3月21日、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典が開催されることになりましたが、開催に当たって当時の記録を調べていたスウェーデンのオリンピック委員会が、陸上競技の男子マラソンにおいて金栗四三が「(棄権の意思が運営者側に届いていなかったため)競技中に失踪し行方不明」となっていることに気付きます。

 

このため、オリンピック委員会は金栗を記念式典でゴールさせることにし、金栗を式典に招待します。

 

招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場内に用意されたゴールテープを切りました。

 

ゴールの瞬間、場内には「只今のタイムは54年8か月6日5時間32分20秒3、これをもちまして第5回ストックホルム大会は総ての競技を終了しました。」とのアナウンスが響きます。

 

これは近代オリンピック史上最も長時間のマラソン競技記録であり、五輪全日程終了までの期間としても史上最長です。今後も破られる事がないであろう不滅の記録でしょう。

 

金栗はゴール後のスピーチで「ここまで、長い道のりでした。この間に妻をめとり、子供6人と孫10人ができました。」とコメントしました。

 

 

 

 

 

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