近代五輪を振り返るシリーズ2(第11回ベルリンオリンピックまで)

近代五輪を振り返るシリーズ2(第11回ベルリンオリンピックまで)

近代五輪を第一回から振り返っていきます。

 

二回目となる今回は第一次世界大戦以降の大会を振り返っていきます。

 

 

1920年 第7回 アントワープオリンピック

 

第6回大会は1916年にドイツのベルリンで開催される予定でした。しかし直前に第一次世界大戦が始まり、ベルリン大会は中止に。

 

戦争が終わった翌年、クーベルタンIOC会長は5年ぶりにIOC総会を召集。

 

1920年に開催されるべきオリンピックの開催地を決めることが大きな議題でした。

 

ヨーロッパの国はどこも戦争の深い傷跡を残しており、とくにベルギーも大きな被害を受けていたのですが、IOC総会では、あえてそのベルギーのアントワープを開催地に選びました。

 

「平和の祭典」をプレゼントすることで、喜びを分かち合おうとしたのです。

 

しかし第一次世界大戦の敗戦国であるドイツ、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、トルコは大会に参加することを禁止されました。

 

 

今大会から初めて選手宣誓が行われ、オリンピック旗も初めて掲げられます。

 

スウェーデン射撃チームの一員として出場したオスカー・スパーンは72歳と280日という年齢で団体銀メダルを獲得。

 

スパーンは今でもオリンピック史上最年長のメダリストとして歴史に名前を刻んでいます。

 

また、最年長金メダリストもこのスパーンで、それは前回第5回ストックホルム大会の同じ種目で獲得したものでした。

 

男子1,500mで銀メダルを獲得したイギリスのフィリップ・ノエル=ベーカーは後にノーベル平和賞を受賞。

 

五輪のメダルとノーベル賞を一人の人物が獲得したという唯一の事例です。

 

 

2回目のオリンピック参加となった日本は初めてのメダリストが誕生。

 

テニスの男子シングルスで熊谷一弥が銀メダルを獲得。

 

ダブルスでも熊谷一弥と柏尾誠一郎のペアが銀メダルを獲得しています。

 

 

1924年 第8回 パリオリンピック

 

2度目のパリ開催となった第8回大会。

 

この大会は初めてマイクロホンが使われた大会として知られています。

 

それまで競技運営の連絡などには大きなメガホンが使われていたのですが、観衆の大歓声でかき消されて選手や役員に連絡や指示が行き届かないのが問題でした。

 

しかしマイクロホンの登場で、その悩みは解消されたのです。

 

選手村が設置されたのもこの大会が初めてです。

 

それまで選手の宿舎にはホテルが利用されていたのですが、メーンスタジアムであるコロンブ競技場の周囲に1軒4名収容のコテージが建てられたのです。

 

 

日本はレスリングフリースタイルのフェザー級で内藤克俊が銅メダルを獲得。

 

当時、アメリカのペンシルバニア大学レスリング部主将だった内藤。

 

排日運動が激しくなったこの時代、日本人がアメリカの大学のスポーツ部のキャプテンに就任したというのは内藤の人望があったからでした。

 

排日移民法が制定されて米国代表として国際試合に出場する事が不可能となったため、学長は、駐米日本大使に内藤を日本代表として出場させるよう進言。

 

これを受けパリオリンピック日本代表となった内藤は、ニューヨークからパリの大会会場へ向かいます。

 

日本政府は日米間の摩擦を和らげるべく、留学生内藤を「日本代表選手」として派遣する、という高度な政治的理由をもって、内藤を日本選手団に加えたともいわれています。

 

パリへ向かう船内の練習で手の指を痛め、思うように動けず、3回戦で、米国の大会では負けたことの無かったリードに判定で敗れたものの、敗者復活戦と3位決定戦に勝ち、日本レスリング界初の五輪メダルを獲得しました。

 

 

1928年 第8回 アムステルダムオリンピック

 

1925年にプラハで開かれたIOC総会では、1914年から検討を進めてきた『オリンピック憲章』が定められました。

 

また、30年間IOC会長の重責を担ってきたクーベルタン会長が勇退を表明。オリンピックは新しい時代の幕開けを迎えます。

 

この大会から初めて聖火が使用され、大会中に継続して燃やされました。

 

開会式ではギリシャが先頭、開催国(オランダ)が最後に入場する形式が採用され、現在まで継続。

 

第一次世界大戦の責任を問われて過去2回のオリンピック参加を拒否されていたドイツも今大会で五輪に復帰。

 

またコカ・コーラが史上初の大会スポンサーになり、コカ・コーラが参加関係者に支給されました。

 

 

日本が初めて金メダルを獲得した記念すべき大会として記憶されています。

 

日本初の金メダリストは男子三段跳びの織田幹雄。

 

織田の優勝は大会関係者が想定できず、他国の旗より4倍の巨大な日章旗が表彰式の国旗掲揚で使用され、君が代の吹奏も運営上準備が整っておらず「千代に八千代に」と途中から行われました。

 

織田によるこの時の三段跳び優勝記録、15m21cmは1964年東京オリンピックを開催した国立霞ヶ丘競技場に立てられた「織田ポール」の高さとして採用され、同競技場の解体まで存在していました。

 

また、男子200メートル平泳ぎでも鶴田義行が金メダルを獲得。日本人2人目、競泳種目では日本人初の金メダリストとなります。

 

 

陸上競技では長らくクーベルタンらの反対で見送られてきた女性の陸上競技への参加が初めて認められ、女性への門戸開放という点で大きく進歩した大会でもありました。

 

日本からは人見絹枝が出場し、800mで銀メダルを獲得し、日本最初の女子メダリストになります。

 

しかしこの女子800mではレース後に多くの参加選手が倒れ、その苛酷さを理由にして200mより長い女子陸上競技は1960年代まで実施が見送られることになってしまいます。

 

また、フィンランドの英雄、パーヴォ・ヌルミは陸上の男子10000mで優勝し、彼自身最後となる9個目の金メダルを獲得しました。

 

 

団体競技ではインドが男子ホッケーで金メダルを獲得。団体競技で初のアジアチームの金メダルとなります。

 

また、文芸コンクールが同時に行われており、その時の優勝者はポーランドの詩人カジミェシュ・ヴィエジンスキでした。

 

 

1932年 第10回 ロサンゼルスオリンピック

 

1929年10月の世界恐慌の影響で、選手及び役員の派遣を見送った国が続出して前回大会の約半分にまで減り、失業者達がスタジアムに向けてデモを行うという事態も発生しました。

 

この大会から陸上競技で初めて写真判定装置が登場。

 

また、全ての計時を一社が担当する事になり、委託されたオメガはヌーシャテル天文台で検定された30個のクロノグラフを用意しました。

 

暁の超特急と呼ばれた吉岡隆徳は男子100メートルで決勝に進出し6位入賞。

 

これは今でも日本人の男子100メートルにおける五輪最高順位となっています。

 

男子三段跳びでは南部忠平が優勝し、日本選手史上初となる2連覇を達成。

 

男子競泳では、日本勢が400メートル自由形をのぞく5種目を制しました。

 

 

馬術のグランプリ障害飛越競技では、日本の西竹一中佐が愛馬のウラヌス号を駆って金メダルを獲得。

 

西が獲得したメダルは夏季オリンピックの馬術競技で日本が獲得した唯一のメダルでもあります。

 

当時の馬術競技は大会最終日にメイン・スタジアムで行われる花形競技であり、『バロン・ニシ』の名前は一躍有名となり、のちにロサンゼルス市の名誉市民にもなりました。

 

しかしその後第二次世界大戦で西は硫黄島に従軍。

 

硫黄島へ向かう前に馬事公苑で余生を過していたウラヌスに会いに行き、ウラヌスは西の足音を聞いて狂喜して、馬が最大の愛情を示す態度である、首を摺り寄せ、愛咬をしてきたといいます。

 

敗色濃厚な日本軍の中にバロン西がいることを知ったアメリカ軍は「バロン西、貴下はロサンゼルスで限りなき名誉を受けた。降伏は恥辱ではない。われわれは勇戦した貴下を尊敬をもって迎えるだろう」と呼びかけました。

 

愛馬ウラヌス号のたてがみを身につけて戦っていた西に、この呼びかけが届いたかどうか定かではありませんが、残念ながら西は戦死。

 

西は死後、陸軍大佐に特進。そして西の後を追うかの如く、戦死の一週間後の3月末、陸軍獣医学校に居た愛馬ウラヌスも死亡しました。

 

西が死ぬまで離さなかったウラヌスのたてがみは1990年にアメリカにおいて発見され、現在では軍馬鎮魂碑のある北海道中川郡本別町の歴史民俗資料館に収められています。

 

 

1936年 第11回 ベルリンオリンピック

 

アドルフ・ヒトラーがベルリン・オリンピック大会組織委員会総裁に就任。

 

「アーリア民族の優秀性と自分自身の権力を世界中に見せつける絶好の機会」と位置づけ、ナチスのプロパガンダに利用された大会にもなりました。

 

この大会において、プロパガンダ効果を高めることを目的に古代オリンピックの発祥地であるギリシャのオリンピアで聖火を採火し、松明で開会式のオリンピアシュタディオンまで運ぶ「聖火リレー」が初めて実施されます。

 

これは彼らゲルマン民族こそがヨーロッパ文明の源流たるギリシャの後継者であるというヒトラーの思想に適った物でもありました。

 

ドイツ政府は聖火リレーのルート調査のためにルート途上の各国の道路事情を綿密に調査しますが、1939年に勃発した第二次世界大戦においてドイツ軍がこの調査結果を活用し、後日ドイツ軍がルートを逆進する形で侵攻を行ったという逸話が残っています。

 

8月1日の開会式では、ヒトラーが開会宣言をしている間に、メインスタジアムの10万人の観衆が、ナチス式敬礼のように右手を斜め前方に挙げました。

 

また、この大会において、当時まだ多くの国では開発段階であったテレビジョンによる中継が試験的に行われました。

 

 

日本は陸上三段跳びの田島直人が金メダルを獲得し、この種目日本人選手の3連覇を達成。

 

陸上棒高跳びでは西田修平と大江季雄がそれぞれ銀・銅メダルを獲得。

 

2人はメダルを半分ずつに割って『友情のメダル』を作成します(後に、西田修平のメダルは早稲田大学に、大江季雄のメダルは秩父宮記念スポーツ博物館に、それぞれ寄贈されます)。

 

マラソンでは当時日本領だった朝鮮出身の孫基禎が優勝。

 

男子競泳では金メダルを3個獲得し、200メートル平泳ぎは三段跳びと同じくオリンピック3連覇となります。

 

競泳女子200メートル平泳ぎで前畑秀子が金メダルを獲得し、日本人女性初の金メダリストとなりました。

 

ラジオ放送での河西三省アナウンサーの「前畑頑張れ」の連呼の実況は、日本の聴衆者に熱狂的な興奮を巻き起こしました。

 

また、サッカーでは初出場の日本チームが優勝候補のスウェーデンを破る歴史的番狂わせを演じ(ベルリンの奇跡)ベスト8に進出しました。

 

 

海外選手で注目されたのはアメリカのジェシー・オーエンス。

 

男子短距離・跳躍種目のそれぞれに優勝し史上初の4冠を達成します。

 

この陸上4冠記録はカール・ルイスが登場するまで並ぶ者は現れませんでした。

 

 

 

 

 

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