近代五輪を振り返るシリーズ3(第17回ローマオリンピックまで)

近代五輪を振り返るシリーズ3(第17回ローマオリンピックまで)

近代五輪を第一回から振り返っていきます。

 

三回目となる今回は第二次世界大戦後から1964年東京オリンピックの直前となるローマオリンピックまでを振り返ります。

 

 

1948年 第14回 ロンドンオリンピック

 

ベルリン大会の次、1940年の第12回大会は東京で開催される予定でした。

 

1940年は紀元2600年(神武天皇が即位して2600年)に当たる記念すべき年で、国家的祝祭を計画していたのです。

 

ところが、1937年には日中戦争が勃発。オリンピックの開催が近づくにもかかわらず軍部の発言力はますます強まり、ついに1938年7月15日の閣議で「東京オリンピック大会の開催は中止されたし」との勧告を出すことになってしまったのです。

 

IOCは急きょヘルシンキを代替地として開催準備を進めましたが、まもなくソ連のフィンランド侵攻が始まり、第12回大会は中止となってしまいました。

 

さらに、第13回大会はロンドンが開催地として決定したものの、開催地決定からまもなくヒトラーによるポーランド侵攻を引き金に第二次世界大戦が始まってしまい、再び中止せざるを得ない状況になってしまいました。

 

そのため第二次世界大戦後の最初のオリンピックは1948年のロンドンオリンピックとなります。

 

 

競技ではオランダの女子陸上選手フランシナ・ブランカース=クンがトラック競技で金メダル4つを獲得しオリンピック史上初となる女性による4冠を達成します。

 

チェコの英雄で人間機関車と称されたエミール・ザトペックは今大会の男子10000mで自身初となる五輪金メダルを獲得。

 

ザトペックは1936年ベルリンオリンピックの5000m・10000mでともに4位入賞を果たした村社講平の力走に感銘を受けたそうです。

 

1981年4月、多摩ロードレースに出場するために来日したザトペックが「どうしても村社講平と一緒に走りたい。彼は私を陸上競技の道に進ませてくれた、憧れの人なんだ」と希望したことから、当時75歳であった村社が「そこまで言うのなら」と一緒に走ることを快諾。

 

5kmをザトペックと共に走りました。

 

 

第二次世界大戦の敗戦国であるドイツや日本は参加が認められませんでした。

 

そのため日本では日本水連がオリンピックでの競泳競技と同じ日程で日本選手権を行い、1500m自由形では「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋廣之進が18分37秒0というタイムで優勝。

 

これは当時の世界記録を大幅に上回るものであり、この競技で金メダルを獲得したアメリカのジェームス・マクレーンの19分18秒5より速く、「幻の金メダル」と呼ばれました。

 

翌1949年8月、ロサンゼルスで開催された全米屋外選手権に出場することができた古橋は400メートル、800メートル、1500メートル自由形と800メートルリレーの4種目でいずれも世界新記録をマークして優勝。

 

世界に日本競泳陣の強さをアピールし幻の金メダルの時の実力は本物だったと証明して見せたのです。

 

 

1952年 第15回 ヘルシンキオリンピック

 

日本が16年ぶりに五輪に復帰した大会です。

 

また、ソ連も五輪に初参加。中国と台湾は双方の参加がオリンピック総会で認められましたが、中華民国はこれに反発して参加を取りやめました。

 

前回金メダルを獲得したエミール・ザトペックは今大会5000m、10000m、マラソンで3冠を達成。

 

日本はレスリングのフリースタイル・バンタム級で石井庄八が唯一の金メダルを獲得。

 

GHQの方針で柔道・剣道が禁止されたため中央大学のレスリング部に入部した石井が戦後初の日本人金メダリストになりました。

 

幻の金メダリスト、古橋廣之進は全盛期を過ぎており、残念ながら8位でメダル獲得はならず。

 

しかし古橋のライバルで大学時代の後輩の橋爪四郎が男子1500m自由形で銀メダルを獲得します。

 

また後に「鬼に金棒、小野に鉄棒」と呼ばれ、日本人最多メダル獲得者になる小野喬も今大会の跳馬で銅メダルを獲得します。

 

これが小野にとって初めての五輪メダルとなりました。

 

 

1956年 第16回 メルボルンオリンピック

 

初めて南半球で開催されたオリンピックとなりました。

 

オーストラリアの検疫に関する法律などにより、馬術競技のみストックホルムでの単独開催が特例として実施されます。

 

しかしスエズ動乱やハンガリー動乱の影響によりボイコットする国や選手が相次ぎます。

 

また中華民国の参加に抗議した中国も大会をボイコット。中国は1984年ロサンゼルスオリンピックまで不参加が続きます。

 

ドイツは前回大会は西ドイツのみの参加でしたが、この大会は東ドイツとの連合チーム(東西統一ドイツ)で参加します。

 

 

競技では地元オーストラリアのベティ・カスバートが陸上競技短距離走で3つの金メダルを獲得し、同じオーストラリアのマレー・ローズも競泳で3つの金メダルを獲得。

 

ソ連のラチニナは金メダル4個、銀メダル1個、銅メダル1個を獲得。

 

ラチニナは後のローマ五輪、東京五輪にも出場し、最終的には金メダル9個、銀メダル5個、銅メダル4個を獲得することになります。

 

これは女子の最多金メダル数であり、2020年現在で水泳のマイケル・フェルプスの23個に次ぎ、陸上のパーヴォ・ヌルミ、水泳のマーク・スピッツ、陸上のカール・ルイス、陸上のウサイン・ボルトと並ぶ2位タイ記録です。

 

 

日本は古川勝、小野喬、池田三男、笹原正三の4人が金メダルを獲得。

 

小野喬は鉄棒での金メダルに加え、団体、あん馬、個人総合で銀メダル、平行棒でも銅メダルを獲得。

 

自身の五輪メダル獲得数を6個に伸ばしました。

 

 

1960年 第17回 ローマオリンピック

 

ローマは1908年の大会の開催地に決まっていたものの、財政的な理由で大会を返上しムッソリーニ時代にも第12回大会(1940年)の開催地に名乗り出ましたが、東京の強い要請を受けて最終的には立候補を辞退。

 

3回目のチャレンジでようやく開催が決まりました。開催地投票で最後までローマと競り合ったのはスイスのローザンヌ。

 

この時にローザンヌは最終投票で競り負けて、それ以降現在までスイスでの夏季五輪は実現していません。

 

 

ソ連が1952年のヘルシンキオリンピック以来3度目の参加で、初めてアメリカを抜いて金メダル獲得数で首位に立ちます。

 

両国はこれ以降冷戦下の中でスポーツでも競争を激化させていきます。

 

マラソンで優勝したアベベ・ビキラはローマのコースを裸足で駆け抜け、一躍有名になります。

 

アベベの母国エチオピアにとっては、かつて自国へ侵攻したイタリアの首都における勝利という政治的な意味もありました。

 

ボクシングライトヘビー級で金メダルを獲得したクレイ(後のモハメド・アリ)はアメリカに帰国後、レストランへの入店を黒人差別を理由に拒否されたことへの抗議として、金メダルを川に投げ捨てた話が有名になります。

 

36年後、アトランタオリンピックでIOCはアリに改めて金メダルを授与することになります。

 

自転車の男子団体ロードレースでは、デンマークの選手達がトレーナーから興奮剤のアンフェタミンを投与されて出場した結果、レース後にヌット・エネマルク・イェンセンが死亡し、他2人が入院するという事件が起こってしまいます。

 

これにより、国際オリンピック委員会(IOC)ではようやくオリンピックでのドーピング防止対策が本格的に検討されるようになります。

 

 

日本は体操競技で4つの金メダルを獲得。

 

体操日本黄金期の幕開けとも言える大会であり、団体はこの大会を皮切りに5連覇を成し遂げることとなります。

 

小野喬は団体、跳馬、鉄棒で金メダル、個人総合で銀メダル、つり輪と平行棒で銅メダルを獲得。

 

五輪のメダル獲得数を12個まで伸ばします。

 

 

 

 

 

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