近代五輪を振り返るシリーズ7(第27回シドニーオリンピックまで)

近代五輪を振り返るシリーズ7(第27回シドニーオリンピックまで)

近代五輪を第一回から振り返っていきます。

 

7回目となる今回はバルセロナオリンピックからシドニーオリンピックまでを振り返ります。

 

 

1992年 第25回 バルセロナオリンピック

 

当時の国際オリンピック委員会 (IOC) 会長であるフアン・アントニオ・サマランチの出身地であるスペインカタルーニャ自治州バルセロナでの開催となります。冷戦終結後初の夏季オリンピックでもありました。

 

バルセロナはかつて1936年の開催予定地に立候補しながらもベルリンに敗れ、その後にスペインが1936年ベルリンオリンピックをボイコットする一方で、ベルリンオリンピックに対抗する形で同時期に人民オリンピックが計画されました。

 

しかしスペイン内戦が起こり、それさえも挫かれた経緯を踏まえての開催となり、当時のスタジアムをそのまま用いて開催されました。

 

また、この大会からアパルトヘイトの緩和を受け、南アフリカの参加が承認され、南アフリカは1960年のローマオリンピック以来、32年ぶり(8大会ぶり)に五輪に参加します。

 

バルセロナ市内のオリンピック体育館を磯崎新が設計したほか、開会式では坂本龍一がマスゲームの音楽を作曲、指揮をするなど、日本人が競技以外でも活躍した大会でもありました。

 

 

競技ではプロ選手の参加が増えたことで競技レベルも上がり、男子バスケットボールではアメリカがNBAプレイヤーで固めた「ドリームチーム」を結成し、他チームを圧倒して金メダルを獲得。

 

一方でワールドカップとの差別化を図るためにサッカーに年齢制限が導入されたのもこの大会から。

 

野球も正式競技となり、キューバが金メダルを獲得。日本の伊藤智仁は1大会27奪三振のギネス世界記録を達成しています。

 

柔道女子も正式種目となり、当時高校生であった田村亮子らが出場。しかし田村は銀メダルに終わり、柔道女子初の日本人金メダリストは次のアトランタ大会を待つことになります。

 

男子柔道では古賀稔彦と吉田秀彦が金メダルを獲得。吉田と古賀は大会前の練習中に古賀が左膝を負傷するという事故が発生。

 

先輩の古賀に怪我をさせてしまった吉田は大いに責任を感じましたが、古賀は吉田に責任を感じさせまいと痛み止めを打ちながら執念で金メダルを獲得し、吉田も金メダルを獲得します。

 

体操では独立国家共同体(EUN)代表として出場したビタリー・シェルボが男子団体総合、個人総合、あん馬、つり輪、跳馬、平行棒で金メダルを計6個獲得。これは体操における1大会の最多金メダル獲得記録です。

 

陸上では男子陸上400mで、日本の高野進が決勝進出し、8位に入賞。

 

日本のオリンピック短距離選手として1932年ロサンゼルス五輪の吉岡隆徳以来となる60年ぶりのファイナリストとなりました。

 

男子陸上マラソンでは、森下広一が1968年メキシコシティーオリンピックの君原健二以来24年ぶりの銀メダルを獲得。

 

女子陸上では、マラソンの有森裕子が女子の陸上競技としては1928年アムステルダムオリンピック800mの人見絹枝以来64年ぶりの銀メダルを獲得しました。

 

有森は人見と同郷(岡山出身)であり、銀メダルを獲得した日付も同じ8月2日(日本時間・現地では8月1日)、さらにその8月2日は、人見の命日でもありました。

 

そして競泳では当時中学2年生で14歳になったばかりの岩崎恭子が、200 m平泳ぎで当時のオリンピックレコードを塗りかえ、金メダルを獲得。

 

レース直後のインタビューでは「今まで生きてきた中で、一番幸せです。」と語り、一躍時の人となりました。

 

 

1996年 第26回 アトランタオリンピック

 

近代オリンピック開催100周年となる記念大会と位置付けられたアトランタ五輪。

 

近代オリンピック百周年にあたるこの大会の開催地は、第一回大会開催地のアテネでの開催が一部では有力視されていましたが、決選投票でアトランタに決定します。

 

聖火の点火者は秘密にされていましたが、当日はパーキンソン病を患うモハメド・アリが震える手で点火を行います。

 

しかし大会7日目に、オリンピック公園の屋外コンサート会場で爆破事件が発生し、2名が死亡、111名が負傷し、ミュンヘンオリンピック事件以来の大惨事となりました。

 

 

競技では陸上大国アメリカでの開催ということもあり陸上が大いに盛り上がります。

 

男子200mではマイケル・ジョンソンが19秒32の当時としては驚異的な世界新記録で優勝し400mでも勝利したことで2冠を達成。

 

男子100mではカナダのドノバン・ベイリーが9秒84の世界新記録で優勝。これは100mに電動計時が導入されて以来、初めてアメリカ人選手以外による世界記録更新という快挙となります。

 

男子10000mではエチオピアの皇帝と呼ばれたハイレ・ゲブレセラシェが五輪では自身初となる金メダルを獲得。

 

男子走り幅跳びではカール・ルイスが自身最後となる五輪の金メダルを獲得し、五輪金メダル獲得数を9個まで伸ばします。

 

 

日本勢は苦戦した大会となり、金メダルは柔道の野村忠宏、中村兼三、恵本裕子の3個のみ。

 

前回バルセロナ五輪決勝で敗れて以来無敗、84連勝を続けていた田村亮子は決勝で敗れまさかの2大会連続銀メダル。

 

ヨットでは女子470級で重由美子、木下アリーシア組が日本ヨット界史上初のオリンピックメダルを獲得。

 

女子マラソンでは有森裕子が前回のバルセロナオリンピックに続いて2大会連続メダルとなる銅メダルを獲得。

 

「初めて自分で自分をほめたいと思います」というインタビューはこの年の流行語大賞に選ばれます。

 

男子サッカーでは28年ぶりに出場した日本が1次リーグでブラジルを破る(マイアミの奇跡)など2勝1敗としたが、得失点差で惜しくもリーグ敗退となりました。

 

 

2000年 第27回 シドニーオリンピック

 

1956年メルボルン大会以来44年ぶりにオーストラリアに帰ってきたシドニー大会。

 

決選投票では、3回連続1位で優勢だった中国の北京を僅差の45対43で破り、2000年代最初のオリンピックの開催地に選ばれました。

 

開会式では南北首脳会談が実施されたばかりの韓国と北朝鮮が統一旗を掲げて合同入場行進を行ったほか、インドネシアから解放されたばかりの東ティモールの選手たちが五輪旗を掲げて最後(開催国オーストラリアの直前)に入場し、盛大な拍手を送られました。

 

また秘密にされていた聖火リレーの最終点火者は先住民アボリジニ出身のキャシー・フリーマンが務めました。

 

 

この大会で英雄となったのが自国開催で大活躍したオーストラリアのイアン・ソープ。

 

競泳の花形自由形で金メダル3個、銀メダル2個を獲得します。

 

聖火の最終点火者であったキャシー・フリーマンは陸上女子400mで金メダルを獲得。

 

同じ一大会で聖火をともし、金メダルを獲得したのはフリーマンが唯一の例です。

 

男子の三段跳びでは世界記録保持者のジョナサン・エドワーズが4度目の五輪で悲願の金メダルを獲得。

 

男子レスリングのグレコローマンスタイル130kg級では、ルーロン・ガードナーが決勝でアレクサンドル・カレリンを破って金メダルを獲得する番狂わせ。

 

カレリンは1987年から続いた国際大会無敗の記録が途絶え、オリンピック4連覇はならず、霊長類最強の男がついに敗れたと話題になりました。

 

 

日本は前回大会を上回る5個の金メダルを獲得し、そのうち4つは柔道。

 

田村亮子、野村忠宏、瀧本誠、井上康生が金メダルを獲得しました。

 

2大会連続銀メダルに終わっていた田村亮子は「最高でも金、最低でも金」と目標を掲げ、見事に悲願となる金メダルを獲得。

 

また、田村と同日に金メダルを獲得した野村はアトランタからの連覇となります。

 

一方で100kg超級では篠原信一が決勝でフランスのドゥイエを内股透かしで投げたもののなぜか相手に得点が入るという世紀の大誤審が発生。

 

銀メダルに終わりましたが、試合後の記者会見で誤審について問われた篠原は「弱いから負けた。それだけです」と話しました。

 

この事件がきっかけで柔道にビデオ判定が導入されることになります。

 

 

女子マラソンでは高橋尚子が日本の女子陸上競技として初の金メダルをオリンピック新記録で獲得。

 

サングラスを投げてスパートしたシーンやレース後に笑顔で「とっても楽しい42.195kmでした」と語った姿は多くの人に印象を残しました。

 

女子マラソン中継の平均視聴率は40%を超えるなど日本中で話題になり、大会後には国民栄誉賞が授与されました。

 

 

 

 

 

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