冬季五輪を振り返るシリーズ6(第18回長野冬季五輪まで)

冬季五輪を振り返るシリーズ6(第18回長野冬季五輪まで)

今回から冬季五輪も第一回から振り返っていきます。

 

今回は第16回アルベールビル大会から第18回長野大会までを振り返ります。

 

 

1992年 第16回 アルベールビル冬季オリンピック

 

フランスのアルベールビルで行われた第16回大会。

 

ソフィア、ファールン、リレハンメル、コルティーナ・ダンペッツォ、アンカレッジ、ベルヒテスガーデンとライバル都市が多かった中で選ばれました。

 

ソビエト連邦の崩壊直後の開催となった今大会では、旧ソ連諸国のうちロシア、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタン、ウズベキスタン、アルメニアの6か国がEUNという1つのチームになって参加します。

 

 

競技では日本勢が大躍進。

 

スキー・ノルディック複合団体では、日本が金メダルを獲得。日本にとっては札幌五輪の笠谷幸生以来二つ目の金メダルであり、ノルディック競技で日本初の冬季五輪メダルとなります。

 

女子フィギュアスケートでは伊藤みどりが銀メダルを獲得。フィギュアスケートでも初の冬季五輪メダルとなります。

 

スピードスケートでは男子500mで黒岩敏幸が銀メダル、井上純一が銅メダルを獲得。

 

女子1500mで橋本聖子が悲願の銅メダルを獲得。男子1000mでは宮部行範が銅メダルを獲得。

 

また、ショートトラック男子5000mリレーでは石原辰義、河合季信、赤坂雄一、川崎努の四人が銅メダルを獲得。

 

ショートトラックでも初の五輪メダルとなりました。

 

日本は、これまでの冬季大会13回の出場して得たメダル7個と同数を、この大会だけで獲得する大躍進となりました。

 

 

1994年 第17回 リレハンメル冬季オリンピック

 

ノルウェーのリレハンメルで行われた第17回大会。

 

対抗都市はエステルスンド、アンカレッジ、ソフィア。

 

初の冬季大会開催を目指すスウェーデンのエステルスンドが有利との下馬評もありましたが、大会会場をコンパクトに集約したリレハンメルが開催権を得ました。

 

今大会から夏冬の五輪を2年ごとの隔年開催にすることとなり、前回の1992年アルベールビルオリンピックからわずか2年後の開催となります。

 

開会式ではサマランチIOC会長の呼びかけにより、10年前の開催地・サラエヴォが内戦の戦火に曝される現状に対し、黙祷が捧げられます。

 

また、環境に優しいオリンピックを、というスローガンを掲げ、アイスホッケーの会場を岩をくり抜いた中に建設したり、スピードスケートの会場がバイキング船をモチーフにした木製の屋根を乗せた物になったり、またボランティアの手により閉幕後は積極的に花を植えたり、といった徹底ぶりが広く評価されました。

 

 

また、今大会の前にはフィギュアスケートのアメリカ代表選考会でトーニャ・ハーディングが前夫を暴行犯に雇い、ライバルのナンシー・ケリガンを殴打し負傷させたとされるナンシー・ケリガン襲撃事件が発生。

 

全米スケート協会とアメリカオリンピック委員会はハーディングをオリンピックチームから追放しようとしましたが、彼女は法的措置をほのめかしてそのまま代表に留まります。

 

五輪の本番ではケリガンが銀メダルを獲得した。ハーディングはフリー演技滑走前にスケート靴の紐がほどけたとアピールし泣きながら審判員に演技のやり直しを懇願、認められたものの結局8位に入賞、という対照的な結果となりました。

 

リレハンメルオリンピックが終わった後の1994年3月16日、ハーディングは罪を認めることで、懲役刑を免れ3年間の執行猶予、500時間の奉仕活動、罰金16万ドルを受け入れます。

 

その後、長野オリンピック開催直前の1998年、アメリカのテレビ番組でケリガンと対面して直接謝罪をし、和解が成立したと報じられました。

 

 

日本選手団は阿部雅司・河野孝典・荻原健司で組んだノルディック複合団体で2連覇を達成。

 

ノルディック複合個人でも河野孝典が銀メダルを獲得します。

 

スキージャンプの団体決勝では日本チームは最終ジャンパーの原田雅彦が105m以上飛ぶことができれば(=よほどの失敗ジャンプをしなければ)優勝が決まるはずでしたが、結果は97.5mで2位に終わります。

 

この失敗ジャンプで原田は大バッシングを受け、「大舞台に弱い」というイメージの払拭は長野オリンピックでの団体優勝を待たなければなりませんでした。

 

また、スピードスケートでは男子500mで堀井学、女子5000mで山本宏美が銅メダルを獲得しました。

 

 

1998年 第18回 長野冬季オリンピック

 

20世紀最後の冬季オリンピックは長野で開催されました。

 

1985年2月28日に信濃毎日新聞は、長野県への冬季オリンピック招致キャンペーンを開始。同年3月25日に長野県議会はオリンピック招致決議を行います。

 

その後1988年6月1日に行われた日本オリンピック委員会(JOC)の1998年冬季オリンピックの開催国内候補地選定投票で盛岡、山形、旭川を破り選定されます。

 

開催地を選ぶIOC総会ではソルトレイクシティ、エステルスンド、ハカ、アオスタを破り選ばれます。

 

なお軽井沢町は1964年の東京夏季大会で馬術競技を開催しているため、夏季大会、冬季大会両方の競技を開催した世界初の町となりました。

 

 

開会式では横綱の曙の土俵入りが話題に。

 

聖火は1997年世界陸上選手権10000m銅メダリスト・千葉真子から1992年アルベールビルオリンピック、1994年リレハンメルオリンピックノルディック複合団体の金メダリスト・河野孝典、阿部雅司、三ヶ田礼一の3人へ、そして1997年世界陸上選手権女子マラソン金メダリスト・鈴木博美に引き継ぎ、1992年アルベールビル五輪女子フィギュアスケート銀メダリストの伊藤みどりによって、点火されました。

 

今大会ではスノーボードの大回転とハーフパイプが正式に競技に採用されます。

 

最初のレースとなった男子大回転で、カナダのロス・レバグリアティが最初のスノーボードオリンピックチャンピオンになります。

 

また、カーリングは正式競技としては1924年シャモニー・モンブランオリンピック以来74年ぶりに復活。

 

スピードスケートではプレシーズンにスラップスケートが登場し、多くの選手がスケート靴を変えての大会となりました。

 

スラップスケートが特に威力を発揮すると言われた長距離種目では、エムウェーブの高速リンクと相まって世界新記録が連発。

 

大会2日目に行われた男子5000メートルでは、メダリスト3選手全員が従来の世界記録を上回りました。

 

 

地元開催となった日本勢は金メダル5、銀メダル1、銅メダル4の計10個のメダルを獲得し、大いに世間を盛り上げました。

 

大会のハイライトとなったのはスキージャンプ。

 

日本勢が金2個(ラージヒル個人・船木和喜、ラージヒル団体・日本代表)、銀1個(ノーマルヒル個人・船木)、銅1個(ラージヒル個人・原田雅彦)を獲得し、特に団体での金メダルは日本中に感動を呼びました。

 

女子モーグルでは里谷多英が冬季オリンピックで日本女子選手初となる金メダルを獲得。

 

スピードスケートでは清水宏保が男子500メートルで金メダル、男子1000メートルで銅メダルを獲得。また、女子500メートルでも岡崎朋美が銅メダルを獲得します。

 

ショートトラックスピードスケートでは男子500メートルで西谷岳文が金メダル、植松仁が銅メダルを獲得します。

 

 

海外勢で注目されたのがクロスカントリースキーで三冠を達成したノルウェーのビョルン・ダーリ。

 

アルベールビル、リレハンメルでも金メダルを獲得しており、三大会合計での五輪メダル獲得数を金メダル8個、銀メダル4個まで伸ばします。

 

冬季五輪で金メダル8個という記録は最多タイの獲得数です。

 

ビョルン・ダーリはクロスカントリー10kmクラシカルで優勝し、レース後のプレスインタビューを終えた彼は同レースを最下位完走したケニアのフィリップ・ボイトのゴールインをフィニッシュラインで待ち、ボイドがゴールすると抱きかかえて、「素晴らしい、君こそ真の勇者だ」とボイドの健闘を讃えました。

 

 

 

 

 

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