W杯を惜しくも優勝できなかった国シリーズ1 ハンガリー

W杯を惜しくも優勝できなかった国シリーズ1 ハンガリー

W杯を振り返るシリーズのスピンオフ連載ということで、W杯を惜しくも優勝できていない国について特集をしてみることとします。

 

第1回はまずハンガリー代表を取り上げます。

 

ハンガリー代表は1934年の第2回W杯から参戦し、その時はベスト8。

 

そして1938年の第3回W杯で準優勝という成績を残します。

 

準決勝でスウェーデン相手に5-1で圧勝するなど力のあるチームでしたが、決勝で地元イタリアに屈しました。

 

この時はムッソリーニ政権下のイタリア開催だったということで露骨なイタリア贔屓の大会であり、中立地での開催であれば結果は変わっていたかもしれません。

 

そして第二次世界大戦を挟み、1949年から代表監督に就任したシェベシュ・グスターヴは、当時主流だったWMシステムを改変したMMシステムを採用して、ハンガリーを世界最強のナショナルチームへ進化させました。

 

中盤を厚くし、運動量で攻守ともに相手を圧倒したサッカーは後にクライフがオランダ代表で実現させることとなるトータルフットボールの原型とも言えるシステムでした。

 

1950年から連勝街道を突き進んだハンガリー代表は、1952年ヘルシンキオリンピックでは金メダルを獲得。

 

世界のメディアは「マジック・マジャール」と呼び、優勝候補筆頭として1954年の第5回W杯を迎えました。

 

 

グループリーグでは韓国に9-0、西ドイツに8-3と圧勝し、首位で勝ち上がります。

 

しかし当時のレギュレーションは準々決勝でグループ首位同士が対戦することになっており、首位通過にあまりメリットがないものでした。

 

西ドイツはそれを見越して主力を温存しており、ハンガリーは首位通過したことでいきなりブラジルと当たることになってしまいます。

 

また西ドイツとの試合でエースのプスカシュが負傷してしまいました。

 

準々決勝のブラジル戦は大雨の中、後に「ベルンの戦い」と呼ばれる荒れた試合になります。

 

ファウル42回、警告4回、退場3回というスタッツで試合はハンガリーが4-2で勝利したものの、トート・ミハーイが負傷退場。

 

試合終了後、ピッチの上で両チームの選手同士で殴り合いが始まり、さらにブラジル代表選手がハンガリーの更衣室に殴りこんだ為に、両チームの選手だけでなく関係者も加わっての乱闘となりました。

 

準決勝もウルグアイ相手に雨の中の死闘となり、延長までもつれ込んだ末に4-2で勝利。

 

ハンガリーはブラジル、ウルグアイ相手に雨の中の死闘を繰り広げて、満身創痍という状況で決勝に辿り着きました。

 

一方で西ドイツはユーゴスラビア、オーストリアと比較的楽な相手を倒して決勝に勝ち上がってきました。

 

そんな状況の中でもハンガリーは決勝で早々と2点を先制。

 

世界最強ハンガリーがそのまま強さを示して優勝すると誰もが思いました。

 

しかしコンディション面で上回る西ドイツが徐々に試合を支配し、前半終了間際に立て続けに2点を決めて同点に追い付きます。

 

そして84分にはついに西ドイツのフリッツ・ヴァルターのパスからラーンが逆転ゴールを決めて、2-3でハンガリーは敗れました。

 

この大会でハンガリーが相手チームにリードを許したのは、この決勝戦の最後の6分間だけでした。

 

さらに1950年から1956年までの間のハンガリーの国際試合での敗戦はこの決勝戦が唯一。

 

この間ハンガリーは国際試合33連勝という今でも破られていない空前絶後の記録を打ち立てています。

 

また、この大会においてハンガリーは27得点という1大会最多総得点のW杯記録も残しています。

 

しかしそれでもW杯の優勝までは手が届きませんでした。

 

W杯後も1955年11月のイタリア戦まで、18戦無敗(15勝3分)という好成績を残していました。

 

しかし1956年にハンガリー動乱が発生。

 

ソ連の介入を恐れた選手達の中で遠征中だったプスカシュ、コチシュ、チボル・ゾルターンらは帰国せずそのまま西側諸国へ亡命し、事実上マジック・マジャールは崩壊しました。

 

その後も西側のプロ選手が参加できないオリンピックでは1964年東京大会、1968年メキシコシティ大会と連覇を達成するも、W杯での最高成績はベスト8止まり。

 

そして1986年W杯出場を最後に9大会連続で欧州地区予選で敗退し、W杯の舞台からも遠ざかるようになってしまいました。

 

 

 

 

 

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