W杯を振り返るシリーズ5 1954年第5回スイスFIFAワールドカップ 〜マジック・マジャールの敗北〜

W杯を振り返るシリーズ5 1954年第5回スイスFIFAワールドカップ 〜マジック・マジャールの敗北〜

FIFA創立50周年だったため、大会は本部のあるスイスで行われることとなりました。

 

またスイスは第二次世界大戦で中立を保ち、戦災を免れたため、スタジアムなどの施設・環境整備が容易という理由もありました。

 

第二次世界大戦後に会費未納などで除名されていたドイツ、日本も再加盟が認められ、予選に復帰。西ドイツは予選を突破し、本戦に出場しています。

 

 

本大会は16カ国が出場し、予選リーグは4カ国ずつ4グループに分けられました。

 

グループリーグには初めてシード制が導入され、2か国のシード国と2か国のノンシード国が同一グループになります。

 

そしてグループリーグは総当たり制ではなく、シード国対ノンシード国の2試合ずつのみの各グループ4試合で実施されました。

 

ノーシード国の中ではスイスがイタリアを、西ドイツがトルコをそれぞれ破り、決勝トーナメントに進みました。

 

またアジア代表は1938年大会にオランダ領東インドが出場していましたが、独立国としては今大会の韓国が初出場。

 

しかしハンガリーに0-9で、トルコに0-7で敗れ、世界の強さを見せつけられる結果となりました。

 

 

準々決勝は各組の1位同士と2位同士が対戦する形式のオープンドローで行われ、グループリーグで同じ組に入った国は決勝まで当たらないレギュレーションで行われました。

 

準々決勝で有名な試合がハンガリー対ブラジル、通称ベルンの戦いです。

 

当時世界最強と言われたマジック・マジャールことハンガリー代表と王国ブラジル代表の対戦。

 

当時のハンガリー代表はマンマークが主流であった中、後のオランダのトータルフットボールの原型ともいえる最先端の戦術で抜群の攻撃力を発揮し、その強さで4年間無敗を維持していました。

 

グループステージでは韓国に9-0、西ドイツに8-3で圧勝したものの、西ドイツ戦でエースのフェレンツ・プスカシュが負傷し、ブラジル戦は欠場を余儀無くされます。

 

そんな中でもハンガリーは強さを見せ、後半60分に3-1と試合を有利に進めました。

 

苛立ったブラジルはここから徐々にプレーが荒くなり、ブラジルのニウトン・サントスがハンガリーのボジク・ヨージェフに悪質なファウルを行い、両者の間で殴り合いが勃発し、そのまま二人は退場。

 

さらにブラジルのウンベルトがハンガリーのローラーント・ジュラに蹴りを入れてしまい一発退場。

 

結果は4-2でハンガリーが勝利しましたが、ファウル42回、警告4回、退場3回というスタッツが残り、試合後もブラジルの選手がハンガリーのロッカールームに押しかけ、関係者をも巻き込み喧嘩を始めるなど後味の悪い結果となってしまいました。

 

他の準々決勝は前回優勝国のウルグアイがイングランドを4対2で下し、西ドイツはユーゴスラビアを2対0で下します。

 

オーストリア対スイス戦は点の取り合いになり、ワールドカップ史上最多ゴールとなる7対5でオーストリアが勝利しました。

 

 

準決勝ではハンガリーがこれまでW杯で無敗という記録を継続していた優勝2回のウルグアイと対戦。

 

ハンガリーは2点を先制しますが、ウルグアイに追い付かれ、延長戦の激闘を制して4-2でハンガリーが勝利します。

 

もう一方の準決勝は西ドイツがオーストリアに6-1で圧勝し決勝はハンガリー対西ドイツとなりました。

 

決勝はハンガリーのエース、プスカシュが怪我を押して出場し、開始6分で早速先制点を決めます。

 

さらに2分後に追加点を加えて早々と2-0とし、ハンガリーの優勝は決まりかと思われました。

 

しかしハンガリーはブラジル、ウルグアイと強豪国との2連戦、しかもこの2試合は雨の降る中の試合だったので消耗していました。

 

一方西ドイツの決勝トーナメントはユーゴスラビア、オーストリアと比較的楽な相手だったため、徐々に西ドイツが体力面で上回るようになっていきます。

 

そして前半終了間際に西ドイツが立て続けに2点を決めて追い付くと、西ドイツペースになった後半についに逆転。

 

西ドイツが3-2と逆転勝利し、この試合はベルンの奇跡と呼ばれました。

 

この時からサッカーにおけるドイツの土壇場での強さはゲルマン魂と呼ばれるようになりました。

 

この優勝は第二次世界大戦の敗北に沈んでいた東西ドイツを大いに勇気づける結果となり、現在まで続くサッカー強豪国としての地位を歩み始めます。

 

大会得点王に輝いたのは11ゴールを決めたハンガリーのコチシュ。

 

ハンガリーはその後の2年間も変わらぬ強さを発揮していましたが、1956年にブダペストで起きたハンガリー動乱によりプスカシュら主力選手たちは次々と外国に亡命。

 

マジックマジャールは事実上の解体となり、今大会はW杯におけるハンガリーの最後の輝きとなってしまいました。

 

 

 

 

 

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