冬季五輪を振り返るシリーズ1(第1回シャモニー・モンブラン五輪)

冬季五輪を振り返るシリーズ1(第1回シャモニー・モンブラン五輪)

今回から冬季五輪も第一回から振り返っていきます。

 

今回は第1回シャモニー・モンブラン冬季オリンピックを振り返ります。

 

 

1924年 第1回 シャモニー・モンブラン冬季オリンピック

 

冬季オリンピックは1924年、夏の大会に28年遅れてはじまりました。

 

この大会は当初フランスが主催、国際オリンピック委員会(IOC)が名目的に後援して実施された『国際冬季競技週間(International Winter Sports Week)』という大会で、これを翌1925年になってIOCが『第1回冬季オリンピック競技大会』として追認したという経緯になります。

 

 

クーベルタン男爵の提唱で1896年にオリンピックが始まったころには、スキー、スケートの国際化も始まっていました。

 

しかし、雪や氷のスポーツは、同じヨーロッパでも地域も時期も限られるため、都会暮らしの初期のIOC委員たちにとっては馴染みの薄いものでした。

 

事情が変わったのは1908年の第4回ロンドン大会にフィギュアスケートが組み込まれてからです。

 

これをきっかけにIOCでは『オリンピックと冬の競技』問題が話題に上るようになりました。

 

そして第1次世界大戦後初の、第7回アントワープ大会(1920年)には、フィギュアに加えてアイスホッケーも登場し、冬季大会への流れが強くなったことから、IOCは1921年6月のローザンヌIOC会議でこの問題を議題として取り上げました。

 

席上、フランス、カナダ、スイスの代表が「中欧、西欧でも冬季オリンピックは立派に開ける」と主張しました。

 

しかし、ノルディック・スキーを国技と認定し、当時、実質的な世界選手権といわれたホルメンコーレン大会を主催していたノルウェーと、その隣国のスウェーデンは猛烈に反対しました。

 

元祖である自分たちからスキーがオリンピックに取り上げられてしまう、という感情的なものがあったようです。

 

 

このためフランス代表は1924年(第8回パリ夏季大会の年)にシャモニーでIOC後援の国際冬季競技会を開くことを提案、動議を出しますが採決に至らず、IOCがこれを了承したのは翌1922年6月のパリ総会の折でした。

 

「試験的に大会を開いてみて、その結果で冬のオリンピックを開催するかどうか決める」ということになったのです。

 

 

こうして開催が決まったシャモニー・モンブラン大会は16カ国から258名(うち女子はフィギュアスケートに13名)が参加。

 

スキー(距離、ジャンプ、ノルディック複合)、スケート(スピード、フィギュア)、アイスホッケー、ボブスレー(4人乗り)にデモンストレーションのカーリング、ミリタリー・パトロール(バイアスロンの前身)を合わせて6競技、16種目が競われました。

 

スキー(ノルディック)についてはフランス大使がノルウェー側に頭を下げて施設の教えを乞いました。

 

おかげでノルウェー、スウェーデンとも反対の前言をひるがえして参加。

 

ノルウェーはスキー50kmと複合で1〜3位を独占し、15kmとジャンプでも1、2位を占めました。スピードスケートはフィンランドが4種目を制し、フィギュアスケート男子もスウェーデンが勝つなど、北欧3カ国が14種目中9つの優勝をさらって面目を保ちました。

 

なお日本も選手派遣を検討していましたが、前年に起こった関東大震災の被害が甚大なのを考慮して派遣を見送りました。

 

大会の成功によりIOCは大会翌年1925年5月のプラハ総会でそれを認め、シャモニー大会を第1回冬季大会として追認、第2回大会を1928年にスイスのサンモリッツで開くことまで決定しました。

 

 

 

 

 

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