冬季五輪を振り返るシリーズ2(幻の第5回札幌冬季五輪まで)

冬季五輪を振り返るシリーズ2(幻の第5回札幌冬季五輪まで)

冬季五輪も第一回から振り返っていきます。

 

今回は第二次世界大戦前までの幻となった第5回札幌冬季五輪までを振り返ります。

 

 

1928年 第2回 サンモリッツ冬季オリンピック

 

名実共に冬季オリンピックとして独立したのがこの大会からになります。

 

スイスのサンモリッツで開催されました。

 

この大会は天候に悩まされた大会でもあります。

 

日中の気温上昇で、リンクの氷が溶け、スピードスケート1万mは途中でやめて再レース、ボブスレーは4ラウンドのところを2ラウンドに変えるなど様々な影響を受けました。

 

日本人が初めて出場した冬季オリンピックはこの大会で、ノルディックスキー種目に永田実、高橋昴、竹節作太、矢沢武雄、伴素彦、麻生武治の6人が出場します。

 

日本人最高位はクロスカントリースキー男子50kmの永田実の24位でした。

 

 

1932年 第3回 レークプラシッド冬季オリンピック

 

アメリカのレークプラシッドで開催され、初めて北米大陸で開催された冬季五輪になります。

 

この大会も暖冬に悩まされ、雪不足のためカナダから雪を運び入れた会場もありました。

 

また、氷のコースがゆるんだボブスレーは競技が閉会式後に延期されました。

 

競技ではスキージャンプでビルガー・ルードを筆頭にノルウェーが表彰台を独占。

 

日本勢は安達五郎が8位に食い込みました。

 

安達はそれまで国内の30m級の台で練習を重ねていたとはいえ五輪で使われるサイズ(70m級)の台を飛んだことがなく、初日の練習で転倒して5日間の入院を余儀なくされましたが、本番では見事なジャンプを2本揃えました。

 

その後、1980年に同じレークプラシッドで行われた大会ではジャンプ会場で大歓声を受けたといいます。

 

男子アイスホッケーのカナダチームは夏季五輪のアントワープ大会からオリンピック4連覇を達成します。

 

ボブスレーのアメリカチームで出場していたエディー・イーガンは1920年アントワープオリンピックでボクシング男子ライトヘビー級の金メダルを獲っており、今大会でもボブスレーで金メダルを獲得。

 

史上初めて夏冬両大会で金メダルを獲得した選手となりました。

 

 

1936年 第4回 ガルミッシュ・パルテンキルヘン冬季オリンピック

 

ドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンで開催され、開会宣言はヒトラーによって行われました。

 

同年8月に開催された1936年ベルリンオリンピックと同じく、ナチスのプロパガンダ要素が多かった大会ですが、国際オリンピック委員会から強い抗議を受けて、この期間中は町中のユダヤ人撲滅ポスターははがされました。

 

競技ではノルウェーのビルガー・ルードがスキージャンプで2連覇を達成。

 

日本勢は伊黒正次が7位、龍田峻次が転倒して最下位に終わったものの最長飛距離の77mを飛ぶ健闘を見せます。

 

ビルガー・ルードはアルペンスキー複合にも出場。

 

ダウンヒルで1位となり、ジャンプとの2冠も期待されましたが、スラロームの1本目で転倒しトータルで4位にとどまり、メダルには届きませんでした。

 

日本勢ではスピードスケート男子500mに石原省三が出場し、4位に入り日本人として冬季オリンピック初の入賞を果たします。

 

またフィギュアスケートには12歳の稲田悦子が出場し10位という成績でした。

 

 

1940年 幻の第5回 札幌冬季オリンピック

 

開催されれば日本初・アジア初の冬季オリンピックとなる予定でしたが、日中戦争の戦局の影響などにより日本が開催権を返上し実現しなかった大会です。

 

当時のオリンピック憲章では夏季オリンピック開催国が冬季オリンピックの開催地の優先権を認められており、1940年夏季オリンピックの開催地が日本の東京に決定したことで冬のオリンピックについては札幌が国内候補地として選ばれます。

 

しかし日本の開催能力不足への懸念やノルウェーからの強い開催主張により議論となり、1937年ワルシャワでのIOC総会にて条件付きで札幌での開催が仮決定となります。

 

日本の開催困難が来年3月のIOCカイロ総会までに決定的となった場合はノルウェーでの開催とするという条件でしたが、1938年1月にガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックを監督し東京オリンピックの技術顧問を務めるヴェルナー・クリンゲベルクは札幌の準備状況を視察した際に問題なしとの判断。

 

1938年3月、カイロでのIOC総会でクリンゲベルクの支持に加え「札幌グランドホテルの100名分増築」「高等小学校を新築し選手村に充当する」「選手待遇費として一人頭500円を外来選手役員に支出する」といった支援策を表明し札幌での開催が正式決定しました。

 

 

しかし、日中戦争の戦局がますます激化・泥沼化していくなか、陸軍を中心に物資調達面の障害になることを懸念されたことや、日中戦争の交戦国である中華民国の選手団の出場問題などを巡り、国の内外から開催反対の意見が相次ぎます。

 

そのため1938年7月14日に厚生省の会議で開催権返上を決定し、翌日の閣議で返上を正式決定しました。

 

国際オリンピック委員会は札幌に代えてサンモリッツ(スイス)、さらにはガルミッシュ=パルテンキルヒェン(ドイツ)を指名しましたが、1939年9月の第二次世界大戦の勃発により、こちらも中止となります。

 

なお、冬季大会は夏季大会とは異なり、開催されなかった大会は第1回からの通し番号(回次)がつかないため、公式的にも「幻のオリンピック」となりました。

 

札幌での開催は、1964年夏季オリンピックの東京開催決定をきっかけに1961年に1968年の開催を目標に招致委員会を設立し、同大会の招致は失敗したものの1966年に1972年冬季オリンピックの招致を成功させ中止から32年後に実現することができました。

 

 

 

 

 

関連ページ

冬季五輪を振り返るシリーズ8(第23回平昌冬季五輪まで)
ロシアで初の冬季五輪開催となったソチ五輪。選考では韓国の平昌、オーストリアのザルツブルクを破って開催都市に選ばれました。今大会から新種目としてフィギュアスケート団体、スキージャンプ女子、スキーハーフパイプ、スキー・スノーボードスロープスタイル、スノーボードパラレル回転、バイアスロン男女混合リレー、リュージュ団体が採用されます。 また、冬季オリンピックとしては史上初めて、開会式に先立って競技を施行することになりました。
冬季五輪を振り返るシリーズ7(第21回バンクーバー冬季五輪まで)
21世紀最初のオリンピックはアメリカのソルトレークシティで行われました。ソルトレークシティでのオリンピック招致は1932年レークプラシッドオリンピック、1972年札幌オリンピック、1992年アルベールビルオリンピック、1998年長野オリンピックの大会に立候補しましたがいずれも落選。5度目の挑戦にしてスイスのシオン、スウェーデンのエステルスンド、カナダのケベックシティを破って開催都市に決まりました。
冬季五輪を振り返るシリーズ6(第18回長野冬季五輪まで)
フランスのアルベールビルで行われた第16回大会。ソフィア、ファールン、リレハンメル、コルティーナ・ダンペッツォ、アンカレッジ、ベルヒテスガーデンとライバル都市が多かった中で選ばれました。ソビエト連邦の崩壊直後の開催となった今大会では、旧ソ連諸国のうちロシア、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタン、ウズベキスタン、アルメニアの6か国がEUNという1つのチームになって参加します。
冬季五輪を振り返るシリーズ5(第15回カルガリー冬季五輪まで)
当初はアメリカのデンバーが開催予定でしたが、環境破壊等の問題で住民の反対運動が起こり、住民投票で大会開催が返上されます。そのため急遽オーストリアのインスブルックで開催されることとなりました。インスブルックでの開催は1964年以来2回目となります。また、オリンピック憲章からアマチュア条項を削除してから、初めての冬季オリンピックとなりました。
冬季五輪を振り返るシリーズ4(第11回札幌冬季五輪まで)
フランスのグルノーブルで行われた第10回大会。カルガリー、ラハティ、札幌、レークプラシッド、オスロも立候補していましたが、1回目の投票で札幌、レークプラシッド、オスロが落選。2回目の投票でラハティが落選。決選投票でグルノーブルがカルガリーを破って開催が決定しました。この大会は初めてマスコットが登場したオリンピックとして知られています。競技では地元フランスのクロード・キリーがスキーのアルペン種目で史上2人目の三冠王となり、大会のヒーローとなります。
冬季五輪を振り返るシリーズ3(第9回インスブルック冬季五輪まで)
1944年のコルチナ・ダンペッツオ冬季オリンピックも第二次世界大戦の影響により中止になります。5回目となるサンモリッツ冬季オリンピックは戦後に開催され、サンモリッツでは2度目の冬季五輪となりました。第二次世界大戦の敗戦国である日本とドイツの参加が認められませんでした。
冬季五輪を振り返るシリーズ1(第1回シャモニー・モンブラン五輪)
冬季オリンピックは1924年、夏の大会に28年遅れてはじまりました。この大会は当初フランスが主催、国際オリンピック委員会(IOC)が名目的に後援して実施された『国際冬季競技週間(International Winter Sports Week)』という大会で、これを翌1925年になってIOCが『第1回冬季オリンピック競技大会』として追認したという経緯になります。
近代五輪を振り返るシリーズ外伝2(五輪招致に敗れた都市たち)
近代五輪を第一回から振り返っていくシリーズ。今回は外伝として五輪招致に敗れた都市を紹介していきます。なお正確な情報が残っていない発祥当時の大会や1次選考で落選して投票の俎上に上がらなかった都市は含めていません。
近代五輪を振り返るシリーズ8(第30回ロンドン五輪まで)
108年ぶりにオリンピックが第1回大会開催都市のアテネに帰ってきました。しかし競技施設の建設をはじめとする準備は、事前の計画より大きく遅れ、開会式当日まで間に合わず、工事が続く施設が相次ぎました。さらに大会後は年間1億ユーロかかる維持費を抑制するため、ギリシャ政府は商用施設への転換を検討していましたが、施設の売却が進まないまま、経済危機を迎えてしまい、現在ファリロンのスタジアムなどは雑草が生い茂っているそうです。
近代五輪を振り返るシリーズ7(第27回シドニーオリンピックまで)
当時の国際オリンピック委員会 (IOC) 会長であるフアン・アントニオ・サマランチの出身地であるスペインカタルーニャ自治州バルセロナでの開催となります。冷戦終結後初の夏季オリンピックでもありました。バルセロナはかつて1936年の開催予定地に立候補しながらもベルリンに敗れ、その後にスペインが1936年ベルリンオリンピックをボイコットする一方で、ベルリンオリンピックに対抗する形で同時期に人民オリンピックが計画されました。
近代五輪を振り返るシリーズ6(第24回ソウルオリンピックまで)
共産圏、社会主義国では初の開催となったオリンピックです。しかし前年1979年12月に起きたソ連のアフガニスタン侵攻の影響を強く受け、ボイコットが続出する大会になります。冷戦でソ連と対立するアメリカ合衆国のカーター大統領が1980年1月にボイコットを主唱し、日本、分断国家の西ドイツや韓国、ソ連と対立関係にあった中華人民共和国やイラン、サウジアラビア、パキスタン、エジプトらイスラム教国など50カ国近くがボイコットを決めます。
近代五輪を振り返るシリーズ5(第21回モントリオールオリンピックまで)
海抜2,240メートルに位置するメキシコシティーで開催された大会です。開催に先立ち、1968年2月2日にIOC総会において当時アパルトヘイト政策を行なっていた南アフリカの参加を認める決議が行われます。これに抗議してアフリカ諸国26カ国が出場ボイコットを発表し、ソ連、共産圏諸国も同調し合計で55カ国がボイコットを表明。これを受けて同年4月21日に決議を変更して南アフリカの参加を認めないこととし、ボイコットは回避されます。
近代五輪を振り返るシリーズ4(1964年東京オリンピック)
1940年夏季大会の開催権を返上した東京は、連合国軍による占領を脱した2年後の1954年に1960年夏季大会開催地に立候補します。しかし、翌1955年の第50次IOC総会における投票でローマに敗れました。
近代五輪を振り返るシリーズ外伝(1940年東京オリンピック)
1929年に、日本学生競技連盟会長の山本忠興は来日した国際陸上競技連盟(IAAF)会長・ジークフリード・エドストレーム(後のIOC会長)と会談し、日本での五輪開催は可能か否か、という話題に花を咲かせます。このエピソードが東京市当局や東京市長・永田秀次郎にも伝わり、にわかに五輪誘致の機運が高まりました。
近代五輪を振り返るシリーズ3(第17回ローマオリンピックまで)
ベルリン大会の次、1940年の第12回大会は東京で開催される予定でした。1940年は紀元2600年(神武天皇が即位して2600年)に当たる記念すべき年で、国家的祝祭を計画していたのです。ところが、1937年には日中戦争が勃発。オリンピックの開催が近づくにもかかわらず軍部の発言力はますます強まり、ついに1938年7月15日の閣議で「東京オリンピック大会の開催は中止されたし」との勧告を出すことになってしまったのです。
近代五輪を振り返るシリーズ2(第11回ベルリンオリンピックまで)
第6回大会は1916年にドイツのベルリンで開催される予定でした。しかし直前に第一次世界大戦が始まり、ベルリン大会は中止に。戦争が終わった翌年、クーベルタンIOC会長は5年ぶりにIOC総会を召集。1920年に開催されるべきオリンピックの開催地を決めることが大きな議題でした。ヨーロッパの国はどこも戦争の深い傷跡を残しており、とくにベルギーも大きな被害を受けていたのですが、IOC総会では、あえてそのベルギーのアントワープを開催地に選びました。
近代五輪を振り返るシリーズ1(第5回ストックホルム五輪まで)
近代オリンピック競技大会の第一歩となる記念すべき大会は、古代オリンピックの故郷・ギリシャのアテネで開催されました。当時のギリシャは国内の経済問題などを抱えており、開催の決定は難航しましたが、国際オリンピック委員会(IOC)の会長に就任したギリシャ人のデメトリウス・ビケラスや事務局長に就任したクーベルタンらの努力が実を結び、計画通りにギリシャで開催できることになったのです。