冬季五輪を振り返るシリーズ7(第21回バンクーバー冬季五輪まで)

冬季五輪を振り返るシリーズ7(第21回バンクーバー冬季五輪まで)

今回から冬季五輪も第一回から振り返っていきます。

 

今回は第19回ソルトレーク五輪から第21回バンクーバー五輪までを振り返ります。

 

 

2002年 第19回 ソルトレーク冬季オリンピック

 

21世紀最初のオリンピックはアメリカのソルトレークシティで行われました。

 

ソルトレークシティでのオリンピック招致は1932年レークプラシッドオリンピック、1972年札幌オリンピック、1992年アルベールビルオリンピック、1998年長野オリンピックの大会に立候補しましたがいずれも落選。

 

5度目の挑戦にしてスイスのシオン、スウェーデンのエステルスンド、カナダのケベックシティを破って開催都市に決まりました。

 

開会式では、前年の9月11日に起きた同時多発テロの中心地、ニューヨーク世界貿易センタービルの跡地から発見したアメリカ国旗が入場し、冬季オリンピックでは初めて大統領が出席しました。

 

アメリカのスケルトン代表のジム・シェイ選手による選手宣誓、そして1980年レークプラシッドオリンピック男子アイスホッケー優勝のアメリカ代表チームによる聖火の点火が行われます。

 

 

大会を一番盛り上げたのはショートトラックスピードスケートの男子1000mで奇跡の勝ち上がりから金メダルを獲得したスティーブン・ブラッドバリー。

 

準々決勝ではブラッドバリーは先行逃げ切りを図るも体力が尽きてしまい、レース中盤から最下位(4位)に後退し追走する状況となりましたが、最終コーナー直前、日本の田村直也とカナダのマーク・ガニヨンが接触し、田村がコーナーの外側に大きくコースアウトして壁にぶつかり転倒したため3位でゴール。

 

準々決勝では上位2人しか準決勝に進出できないため、本来ならブラッドバリーはここで敗退するところでしたが、審判がガニヨンと田村の接触について、「ガニヨンが田村を妨害した」と判断し、2位でゴールしていたガニヨンが失格となり、繰り上がりでブラッドバリーが準決勝に進出。

 

準決勝ではスタートから優勝候補たちの先頭集団に遅れをとり終始最下位(5位)で追走するレース展開になりますが、残り半周付近で韓国の金東聖が転倒し、さらに最終コーナーを曲がり終える直前には中国の李佳軍とカナダのマシュー・ターコットがそれぞれ転倒。

 

ゴール直前に計3人が転倒したことによりブラッドバリーは2位でゴールし、さらにその後の審議で、1位でゴールしていた日本の寺尾悟が「ターコットを妨害して李も巻き込んで転倒させた」と判断され失格となったため、ブラッドバリーは結果1位となり決勝に進出します。

 

そして決勝。準決勝よりも大きく先頭集団に遅れをとり、再度スタートからレースの終盤まで最下位(5位)で追走する状況となりますが、ゴール直前の最終コーナーで前を走っていた4人の選手(オーノ、安賢洙、李佳軍、ターコット)が互いに接触し合い全員転倒したため、ひとり後方にいて難を逃れたブラッドバリーが転倒した4人を抜き、1位でゴール。

 

奇跡の金メダルを獲得し、この金メダルは南半球では初めてとなる冬季五輪金メダルでもありました。

 

 

一方で日本勢は日本勢は地元開催だった長野オリンピックに比べて不振で、金メダルはゼロ。

 

前回長野の金メダリストであった2人(男子スピードスケート500m・清水宏保の銀、女子モーグル・里谷多英の銅)の獲得した2個にとどまります。

 

またこの大会は判定が疑惑を呼んだ大会でもありました。

 

フィギュアスケートのペア競技では「フランスの審判員に不適切な行為があった」ということにされ、IOCによって強引に2位のチームにも金メダルが与えられます。

 

ショートトラックでは韓国の金東聖が失格の判定を受け、韓国のネチズンがこれを不服としIOCなどに対しサイバーテロを行い問題になります。

 

この大会ではこれを含めアポロ・アントン・オーノ絡みでの不可解な失格が多発しました。

 

スピードスケート男子500mでも優勝したケーシー・フィッツランドルフの一本目のスタートがフライングではないかとの疑惑が持ち上がりました。

 

ピストルが鳴った瞬間、フィッツランドルフの腕はすでに大きく動いていたように見え、当時の日本の解説者も「今のは明らかにフライングでしょう」「あれだけ他の選手のフライングを厳しく取っていながら、これを見逃すというのは、何か意図的なものを感じますね」とコメントしていました。

 

これがフライングであったら日本の清水宏保が金メダルを獲得していたはずでした。

 

なお、この判定をしていたのはアメリカの審判で、これを含めアメリカ寄りと見られた判定が多く目立ったことなどから、会期の後半ならびに閉会後には地元のマスメディアからもエイブラハム・リンカーンの演説をもじった「アメリカの、アメリカによる、アメリカのための五輪」と揶揄されました。

 

さらには、一部の選手や役員が閉会式を実際にボイコットしています。

 

 

2006年 第20回 トリノ冬季オリンピック

 

イタリアでは1956年コルチナ・ダンペッツォ大会以来、50年ぶり2回目となる冬季大会開催です。

 

スイスのシオン、フィンランドのヘルシンキ、オーストリアのクラーゲンフルト、スロバキアのポプラト、ポーランドのザコパネを破り開催都市に選ばれました。

 

開会式のフィナーレでは世界三大テノールのひとりであるルチアーノ・パヴァロッティが登場し、「トゥーランドット」の「誰も寝てはならぬ」を歌います。

 

そのトゥーランドットで荒川静香が今大会日本勢唯一の金メダルを獲得。

 

アジア勢として初のフィギュアスケートの金メダル獲得となります。

 

日本勢はメダルが一つのみと大苦戦しますが、4位が5つあり、惜しいところでメダルを逃した種目も多い大会でした。

 

中でもスキー・アルペン男子回転で皆川賢太郎が4位、湯淺直樹が7位に入り、1956年コルチナ・ダンペッツオ大会で銀メダルを獲得した猪谷千春以来、50年ぶりのアルペン種目入賞を果たしたのは大きな快挙でした。

 

また、スキー・クロスカントリー女子チームスプリントでも、夏見円・福田修子組が日本女子クロスカントリー初の8位入賞。

 

カーリングでもチーム青森が7位入賞を果たしました。

 

 

2010年 第21回 バンクーバー冬季オリンピック

 

1988年カルガリーオリンピック以来、22年ぶり2回目となるカナダでの開催となったバンクーバー大会。

 

韓国の平昌、オーストリアのザルツブルクを破って開催都市に選ばれました。

 

この大会は冬季・夏季を含めて史上初めて開会式が屋内で行われた五輪でした。

 

競技でも地元のカナダ勢が活躍し、金メダル14個、メダル総数26個を獲得し、金メダル総数で今大会1位となります。

 

なおカナダは、1976年モントリオールオリンピック(夏季)と1988年カルガリーオリンピック(冬季)では金メダルを獲得できておらず、自国開催の五輪で金メダルを獲得したこと自体が初めてでした。

 

 

日本勢は金メダルこそ取れなかったものの、銀メダル3個、銅メダル2個の計5個のメダルを獲得し、過去2大会の不調から盛り返す兆しを見せます。

 

スピードスケート男子500mでは長島圭一郎が銀、加藤条治が銅メダルを獲得。

 

スピードスケート女子チームパシュートではドイツに0.02秒差で敗れるも銀メダルを獲得。

 

フィギュアスケート女子シングルでは浅田真央が銀メダルを獲得。

 

そしてフィギュアスケート男子シングルでは高橋大輔が日本人史上初の男子フィギュアスケートのメダルとなる銅メダルを獲得しました。

 

 

 

 

 

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