冬季五輪を振り返るシリーズ8(第23回平昌冬季五輪まで)

冬季五輪を振り返るシリーズ8(第23回平昌冬季五輪まで)

今回から冬季五輪も第一回から振り返っていきます。

 

今回は第22回ソチ五輪から第23回平昌五輪までを振り返ります。

 

 

2014年 第22回 ソチ冬季オリンピック

 

ロシアで初の冬季五輪開催となったソチ五輪。

 

選考では韓国の平昌、オーストリアのザルツブルクを破って開催都市に選ばれました。

 

今大会から新種目としてフィギュアスケート団体、スキージャンプ女子、スキーハーフパイプ、スキー・スノーボードスロープスタイル、スノーボードパラレル回転、バイアスロン男女混合リレー、リュージュ団体が採用されます。

 

また、冬季オリンピックとしては史上初めて、開会式に先立って競技を施行することになりました。

 

なお今大会はチェリャビンスク隕石の落下から1年後の2014年2月15日に金メダルを獲得した選手には、隕石の破片を埋め込んだ記念メダルが授与されました。

 

 

今大会は地元のロシア勢が活躍。

 

しかし大会後にロシアの大規模なドーピング違反が発覚し、2017年12月までにロシア人選手46名が永久追放処分、メダル13枚(=金4+銀8+銅1)が剥奪されます。

 

その後、2018年2月1日にスポーツ仲裁裁判所の決定を受けて剥奪された13枚のうち9枚(=金2+銀6+銅1)のメダルが返還され、結果的に獲得した33枚から4枚(=金2+銀2)のメダルが剥奪されたことになりました。

 

 

前回バンクーバー五輪から復活の兆しを見せていた日本勢も今大会大活躍。

 

男子スノーボードハーフパイプでは平野歩夢が銀メダル、平岡卓が銅メダルと二人の十代が揃ってメダルを獲得。

 

さらにスノーボードパラレル大回転も竹内智香が銀メダルを獲得。

 

日本スノーボード界の歴史を変える初の五輪メダルとなりました。

 

ノルディック複合ノーマルヒルでは渡部暁斗が銀メダルを獲得。ノルディック複合のメダルは1994年リレハンメル五輪以来でした。

 

ジャンプラージヒルで葛西紀明が銀メダルを獲得。スキージャンプのメダルは1998年長野五輪以来。

 

その長野五輪では控えとして仲間たちの金メダル獲得を見守ることしかできなかった葛西。

 

そんな葛西がオリンピック7度目の出場で初のメダルを獲得し、当時41歳254日でのメダル獲得は、冬季五輪に於ける日本人最年長メダル獲得記録であり、ジャンプ競技においても世界最年長記録を更新します。

 

その後、清水礼留飛、竹内択、伊東大貴と出場した団体ラージヒルでも銅メダルを獲得し、「レジェンド」という言葉はこの年の流行語に選ばれました。

 

また女子スキーHPでは小野塚彩那が銅メダルを獲得。

 

 

そして今大会最も日本を沸かせたのは、当時19歳で五輪に出場した羽生結弦でした。

 

ショートプログラムでは歴代最高の100点超えを叩き出してトップに立った羽生。

 

フリーではミスが出たもののライバルのパトリックチャンにもミスが出て、見事に金メダルを獲得します。

 

羽生結弦は自国開催以外で初めての日本人男子個人冬季五輪金メダリストであり、夏冬通じて日本選手として初めての平成生まれ金メダリストであり、初めての欧米人以外での男子フィギュア五輪金メダリストとなりました。

 

日本勢は今大会合計で8個のメダルを獲得。地元開催の長野を除くと過去最高のメダル獲得数となりました。

 

 

2018年 第23回 平昌冬季オリンピック

 

韓国で初の冬季五輪開催となった平昌大会。

 

過去2回いずれも接戦で競り負けていましたが、今回はドイツのミュンヘン、フランスのアヌシーを破って悲願の開催権を獲得しました。

 

国家ぐるみの組織的なドーピング疑惑が持ち上がったロシアに対してはIOCから資格停止処分が下されます。

 

ロシアの選手はロシア選手団として出場できませんでしたが、IOCのアンチドーピング規程に従うことを立証できる個人選手は「ロシアからのオリンピック選手、Olympic Athletes from Russia (OAR)」として、中立的なオリンピック旗とオリンピック賛歌の下、出場することが許されました。

 

また今大会はスノーボードのビッグエア、カーリングの混合ダブルス、スピードスケートのマススタート、アルペンスキーの混合団体が今大会の新種目として採用されました。

 

開会式では厳しい寒さの中、トンガの旗手を務めたノルディックスキー距離男子のピタ・タウファトファが裸の上半身にココナッツ油を塗り、腰蓑調の民族衣装で登場して注目されます。

 

 

競技では大会序盤から悪天候により複数の競技で中止や延期、及び、強行開催が行われ、選手を悩ませます。

 

大会2日目のスキージャンプ男子の個人ノーマルヒル決勝では、氷点下10℃を下回る極寒の中、秒速5メートル以上の強烈な風が吹き、体感気温では氷点下20℃近くの過酷な環境下での開催に。

 

強風による度重なる中断により、日付をまたいだ0時19分まで行われます。

 

さらにスノーボードの女子スロープスタイルでは強風の影響で競技開始が1時間以上も遅れた上に、出場した25選手の全員が、2回の試技のいずれか1本以上で転倒してしまう過酷な状況でした。

 

 

そんな中、日本勢は前回のソチ五輪に引き続き大活躍。

 

男子モーグルの原大智が日本男子モーグル史上初の五輪メダルとなる銅メダルを獲得したことを皮切りに、同じ日にはスキージャンプ女子ノーマルヒルで前回金メダル本命と言われながらメダルを高梨沙羅が悲願の銅メダルを獲得。

 

男子スノーボードでは平野歩夢が2大会連続の銀メダルを獲得。

 

男子ノルディック複合ノーマルヒルでも渡部暁斗が2大会連続の銀メダルを獲得。

 

スピードスケートでもメダルを量産し、女子500mでは小平奈緒が36秒94の五輪新記録で日本女子スピード史上初の金メダル、女子1000mでは小平奈緒が銀メダル、高木美帆が銅メダルを獲得。

 

さらにスピードスケート女子団体パシュートで、日本が2分53秒89の五輪新記録で金メダルを獲得し、新種目のスピードスケート女子マススタートでも、高木菜那が今大会自身2個目の金メダルを獲得し初代女王に輝きます。

 

カーリングでもロコ・ソラーレ(日本代表)がイギリスを5-3で下し銅メダルを獲得し日本カーリング史上初のメダルを獲得。

 

そして男子フィギュアスケートの羽生結弦は怪我からの復活で2大会連続の金メダルを獲得。

 

冬季オリンピックの個人種目で日本人が連覇を果たしたのは史上初であり、この種目における連覇も1952年オスロオリンピックのアメリカのディック・バトン以来66年ぶりの快挙でした。

 

また銀メダルを獲得した同じ日本の宇野昌磨と共にフィギュア界初となるダブル表彰台となり、羽生結弦の金メダルは冬季五輪通算1000個目の金メダルとしても歴史に刻まれることとなりました。

 

日本勢は長野五輪を上回る過去最多の13個のメダルを獲得。

 

日本中がメダルラッシュの歓喜に包まれました。

 

 

 

 

 

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