W杯を振り返るシリーズ15 第15回 アメリカFIFAワールドカップ 〜過酷な環境下での大会〜

W杯を振り返るシリーズ15 第15回 アメリカFIFAワールドカップ 〜過酷な環境下での大会〜

開催国としてアメリカ、ブラジル、モロッコ、チリの4カ国が名乗りを挙げましたが、1回目の投票で過半数を得たアメリカが開催地に選ばれました。

 

アメリカは4大プロスポーツが人気であり、サッカー不毛の地と言われていました。

 

しかし大会は大いに盛り上がり、観客動員数は約359万人、1試合あたり約6.9万人を記録。

 

この大会の成功をステップにして、1996年には新たなプロリーグ、メジャーリーグサッカー(MLS)が創設されました。

 

一方で長距離移動、時差、気温など環境面は厳しく、ヨーロッパのゴールデンタイムに合うようスケジュールが組まれたため、真夏の炎天下でのデーゲームが多い大会でした。

 

そのため選手の体力消耗も激しく、堅守速攻型のチームが活躍する大会となりました。

 

 

 

出場国は前回同様に24ヶ国。

 

日本ではドーハの悲劇で出場を逃したことが大きく記憶されていますが、フランスも最終節のホームゲームで試合終了間際にブルガリアに決勝点を奪われて出場権を逃すという通称「パリの悲劇」が起こっています。

 

また優勝経験国であるイングランドや直近のEUROを制したデンマークも敗退するなどヨーロッパ予選では多くの波乱が起きました。

 

また南米予選でもブラジルとアルゼンチンが苦戦。

 

ブラジルは辛くも最終節で本大会出場を決め、アルゼンチンは大陸間プレーオフに回ってオーストラリアに勝利してようやく出場権を掴むという状況でした。

 

 

 

前回同様6組に分けられたグループリーグ。今大会から勝利勝ち点が2から3に増加されます。

 

またプレーに関与しなければオフサイドは取られないというオフサイドルール緩和や選手交代枠が2から3に増枠、主審・副審の専任制度導入など多くのルール変更が行われました。

 

 

 

開催国アメリカが入ったグループAはルーマニア、スイス、アメリカが突破。

 

アメリカは前回弱小と言われていたコスタリカを決勝トーナメントに導き、知将と呼ばれたボラ・ミルティノビッチを監督に招聘していました。

 

結果、強豪国のコロンビアを抑え、見事に決勝トーナメント進出というノルマを達成します。

 

一方でアメリカ戦でオウンゴールを犯したアンドレス・エスコバルは、帰国後に地元のバーで射殺されてしまいました(エスコバルの悲劇)。

 

ルーマニアは「東欧のマラドーナ」と呼ばれた中心選手、ゲオルゲ・ハジの活躍で堂々の1位通過となります。

 

 

 

グループBはブラジルとスウェーデンが突破。

 

ブラジルは決して前評判は高くなかったものの、主将ドゥンガを中心にまとまったチームでした。

 

ロマーリオとベベットの2トップも活躍。そして同年5月にF1のレース中に事故死した英雄アイルトン・セナに報い、国民を勇気づけようとチームが団結していました。

 

敗退したロシアとカメルーンの試合ではロシアのオレグ・サレンコが1試合5得点というW杯最多得点記録を更新。

 

そしてカメルーンのロジェ・ミラが42歳という年齢でW杯史上最年長ゴールを決めています。

 

 

 

グループCはドイツとスペインが順当に突破。ドイツは国家再統一により東西合同チームとして再出発の出場でした。

 

グループDはナイジェリア、ブルガリア、アルゼンチンが突破。3チームが勝ち点6で並びました。

 

アルゼンチンはマラドーナが代表に復帰し、バティストゥータのハットトリックでギリシャに大勝するなど好発進。

 

しかし2戦目のナイジェリア戦後のドーピング検査でマラドーナの検体からエフェドリンが検出され、無期限出場停止となり大会から追放されました。

 

 

 

グループEはイタリア、メキシコ、アイルランド、ノルウェーが同居し、死の組と言われました。

 

そして4チーム全てが1勝1敗1分の勝ち点4で並ぶという大混戦。

 

得失点差も4チームが並び、総得点の差でメキシコ、アイルランド、イタリアという順位で3チームが勝ち抜け。

 

12大会ぶりの出場となったノルウェーは持ち前の堅守で3試合を失点1に抑えましたが、総得点の差で涙を飲みました。

 

 

 

グループFはオランダ、サウジアラビア、ベルギーが勝ち点6で突破します。

 

初出場のサウジアラビアは1966年大会の北朝鮮以来となるアジア勢の勝利を挙げ、決勝トーナメントへ進出。

 

ベルギー戦でサイード・オワイランが魅せた60mドリブル独走ゴールは大会ベストゴールと言われました。

 

 

 

ラウンド16ではドイツ、ブルガリア、イタリア、スペイン、ブラジル、オランダ、スウェーデン、ルーマニアが勝ち上がりベスト8へ。

 

7月4日の独立記念日に王国ブラジルと対戦した地元アメリカは善戦するも0-1で敗れました。

 

グループ1位で通過したナイジェリアはイタリアと対戦。前半25分に先制し、さらに不可解な判定でイタリアのゾラが1発退場になるなど勝利は目前でした。

 

しかしグループリーグで無得点と沈黙していたイタリアのエース、バッジョが後半43分に執念の同点ゴールを決め、さらに延長にPKでバッジョが追加点。

 

1-2で敗れ、惜しくもジャイアントキリングはなりませんでした。

 

マラドーナが大会から追放されたアルゼンチンはルーマニアの「東欧のマラドーナ」ことハジに決勝ゴールを決められ、2-3で敗れてここで沈みます。

 

予選リーグで大健闘したサウジアラビアもスウェーデンに1-3で敗れて、ここで姿を消しました。

 

 

 

準々決勝1試合目はイタリアがスペインに2-1で勝利。

 

準々決勝2試合目のブラジル対オランダは今大会屈指の好ゲームと呼ばれました。打ち合いを制して3-2でブラジルが勝利します。

 

準々決勝3試合目はブルガリアがドイツに2-1で勝利するという番狂わせが起きます。

 

統一ドイツはまだ東西の選手の連携が十分取れておらず、チームが一枚岩では無かったと言われています。

 

準々決勝4試合目のスウェーデン対ルーマニアは2-2からPK戦になり、スウェーデンが勝利。

 

アルゼンチンを撃破して勝ち上がるなど今大会の注目チームの一つとなっていたルーマニアもここで姿を消しました。

 

 

 

準決勝はイタリア対ブルガリアとブラジル対スウェーデン。

 

どちらも優勝候補対伏兵という構図でしたが、イタリアが2-1で勝利し、ブラジルも1-0で勝利するという優勝候補が共に勝利。

 

3位決定戦ではスウェーデンがブルガリアに4-0と圧勝して1958年大会以来の3位に。

 

北欧のスウェーデンは猛暑の大会で苦戦を強いられると予想されていましたが、大健闘の大会となりました。

 

ブルガリアも最後はイタリア、スウェーデンに敗れて4位と力尽きたものの、予選でフランスを破って出場を決めた勢いそのままに本大会でも活躍。

 

アルゼンチン、メキシコ、ドイツといった強豪を撃破した立役者となったエースのストイチコフは6得点で大会得点王となりました。

 

 

 

決勝はブラジル対イタリア。

 

試合は炎天下で動きのないまま進み、延長戦も0-0のまま終了し、ワールドカップ史上初の決勝PK戦に突入。

 

イタリアの5番手、名手ロベルト・バッジョがゴールバーの上に外してしまい、ブラジルの優勝が決まりました。

 

後に「PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持つ者だけだ」、「成功したPKは忘れられるが、失敗したPKは永遠に忘れることができない」といった名言が有名になります。

 

ブラジルは1970年大会以来6大会ぶりに、単独最多となる4回目の優勝。

 

エースのロマーリオが大会MVPに輝きました。

 

 

 

 

 

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