日本代表W杯予選激闘の歴史1 ドーハ以前

日本代表W杯予選激闘の歴史1 ドーハ以前

2022年カタールW杯最終予選は本大会出場に王手を賭け、いよいよ3/24にオーストラリアとのアウェー決戦を迎えます。

 

そこでこの機会にこれまでの日本代表のW杯予選の歴史を振り返ってみたいと思います。

 

 

・1938年フランスW杯アジア予選

 

日本が初めてW杯予選にエントリーしたのは第3回フランス大会予選でした。

 

しかし、日中戦争の勃発によりエントリーを辞退することになります。

 

当時アジアからエントリーしていたのは日本とオランダ領東インド(現インドネシア)だけだったので、もし試合をしていたら日本がこの時にW杯初出場を果たしていた可能性は高かったでしょう。

 

残念ながら日本が辞退したことでオランダ領東インドが予選無しで本戦に出場し、日本が初出場を果たすのはこの60年後、奇しくも同じフランスで開催される大会まで待つこととなります。

 

 

・1954年スイスW杯アジア予選

 

1954年にAFCが創設され、アジア枠1が与えられました。

 

このアジア予選にエントリーしたのは日本、韓国、中華民国の3試合でしたが、中華民国が出場を辞退し、日本と韓国のホーム&アウェー戦で行われることになりました。

 

しかし当時の韓国大統領であり、反日政策で知られる李承晩が日本代表の韓国入国を拒否。

 

2試合とも日本のホームで行われることとなり、李承晩は韓国代表の選手に対して「日本に負けたら、玄界灘に身を投げろ。二度と韓国の地を踏むな」とプレッシャーをかけたそうです。

 

当時の日本のエースは川本泰三。元日本サッカー協会会長の長沼健もメンバーに入っていました。

 

神宮競技場(後の国立競技場)で行われた第1戦で日本は長沼健のゴールで先制するも結局1−5で大敗。

 

そして1週間後に迎える第2戦。当時は得失点差やアウェールールのゴールは無かったため、第2戦でもし勝てばプレーオフとして第3戦で勝負することができました。

 

しかし結果は2−2の引き分け。ここから韓国が日本の初出場の壁になり続けることになります。

 

なお当時はW杯がどういう大会であるか理解していた選手はほとんどおらず、オリンピック予選やアジア大会に向けた強化試合というような気持ちで試合に臨んでいたそうです。

 

 

・1962年チリW杯アジア予選

 

1958年第6回スウェーデンW杯にはエントリーせず、次に日本が参加したのは1962年のチリW杯予選。

 

この大会のアジア枠は0.5枠。日本、韓国、インドネシアがエントリーしましたが、後にインドネシアがエントリーを取り消し、またしても韓国との直接対決で雌雄を決することとなりました。

 

韓国との試合はホーム&アウェーで争われましたが、韓国とのアウェー戦を1−2で落とすと、ホームも0−2で敗れてあえなく2連敗で敗退。

 

なお勝ち上がった韓国もヨーロッパとのプレーオフではユーゴスラビア相手に2戦合計8−2で惨敗。

 

アジアとヨーロッパの力の隔たりを感じさせる結果となりました。

 

 

・1970年メキシコW杯アジア予選

 

1966年大会は当時の規定では代表チームがW杯に出場すると、五輪のアマチュア規定に抵触し、2年後にメキシコシティ五輪に選手が出場できなくなるため、日本は出場を辞退。

 

その甲斐もあってか1968年メキシコオリンピックで日本は見事に銅メダルを獲得。

 

そしてそのメンバーを中心に満を持して臨んだのがこの1970年大会でした。

 

しかしエースの釜本が予選前にウイルス性肝炎で入院し、欠場。

 

この大会の予選はアジア・オセアニアが合同で行われ、イスラエル、ニュージーランド、ローデシアがシードされて2次予選から出場。

 

日本、韓国、オーストラリアがシードされずに1次予選から出場というレギュレーションでした(今と比べると隔世の感がありますね)

 

エース釜本を欠いた日本は韓国、オーストラリアに対していずれも1分1敗と勝ち星を挙げることができず、1次リーグ最下位で終わったのでした。

 

 

・1974年西ドイツW杯アジア予選

 

この大会の予選もアジア・オセアニア合同で行われました。

 

ゾーンAとゾーンBに分かれ、各ゾーンもそれぞれ2組のグループリーグに分かれます。

 

グループリーグ上位2カ国が決勝トーナメントに進み、トーナメントを勝ち上がった国がそのゾーンの優勝国としてもう一つのゾーンとの出場決定戦に臨むというレギュレーションです。

 

ゾーンAの日本はグループリーグで香港、南ベトナムと同組になり、香港には敗れたものの南ベトナムに勝利して、W杯予選で初めての勝利を挙げました。

 

グループ2位で勝ち上がった日本ですが決勝トーナメントの準決勝でイスラエルに延長の末に敗れて敗退。

 

日本に勝ったイスラエルも決勝で韓国に敗れ、ゾーンAの代表として出場決定戦に臨んだ韓国もゾーンB代表のオーストラリアに敗れ、この大会はオーストラリアが本大会の出場権を手にしました。

 

 

・1978年アルゼンチンW杯アジア予選

 

この大会の予選もアジア・オセアニア合同で行われました。

 

1次予選は5グループに分かれ、各組首位が最終予選に進出するというレギュレーションでした。

 

日本は韓国、北朝鮮、イスラエルと同組になりましたが北朝鮮は参加辞退し3カ国でのグループリーグとなります。

 

しかしイスラエルに2敗、韓国に1分1敗とあえなくグループリーグ最下位で敗退。

 

この大会を最後に長年エースとして活躍を続けてきた釜本邦茂も代表を引退し、日本サッカー冬の時代と呼ばれる時期に入っていきます。

 

なお最終予選は6勝2分と無敗で勝ち抜いたイランが本大会出場を決めました。

 

 

・1982年スペインW杯アジア予選

 

引き続きアジア・オセアニア合同で行われた予選で枠が2枠に増えました。

 

釜本邦茂や奥寺康彦が代表を引退し、日本は木村和司、金田喜稔、風間八宏、都並敏史といったメンバーが台頭し始めた頃でした。

 

予備予選でシンガポールに勝利してグループリーグに進んだ日本は中国、マカオと同組になり2位でグループリーグを突破。

 

しかしその後の準決勝で北朝鮮に敗れ、最終予選進出はなりませんでした。

 

最終予選を突破したのはクウェートとニュージーランド。この二国が本大会出場となりました。

 

 

・1986年スペインW杯アジア予選

 

1962年大会以来、最終予選まで進み、突破まであと一歩と迫ったのがこの大会の予選でした。

 

木村和司が絶対的なエースとしてゲームを組み立て、松木安太郎や都並敏史、水沼貴史、原博実らが中心メンバーとして活躍しました。

 

この大会の予選からアジアとオセアニアは分離され、その代わりアジアが東地区と西地区で分かれて予選が行われました。

 

出場枠は東西各地区で1枠ずつとなります。

 

日本は北朝鮮、シンガポールと同居したグループリーグを3勝1分と好成績で突破し、2次予選も香港に5−1と勝利して、韓国との最終予選に進出。

 

韓国とのホーム&アウェーで勝てば本大会出場というところまできました。

 

しかし日本に先立ってすでにプロ化していた韓国の方が地力が上でした。

 

日本ホームで行われた1戦目は今でも語り継がれる木村和司の伝説的なフリーキックによる得点があったものの1−2で敗れ、アウェー戦でも0−1できっちり封殺されました。

 

プロ選手中心となっていた韓国との力の差を感じた監督の森孝慈は予選後に「日本がW杯に行くためにはもはやプロ化しかない」と発言。

 

ここからJリーグ発足に向けて動き始めることとなります。

 

 

・1990年イタリアW杯アジア予選

 

前回予選まで中心選手だった木村和司が代表を去り、4年後にドーハの悲劇を経験することとなる松永成立、堀池巧、井原正巳、柱谷哲二、長谷川健太といったメンバーが中心になりつつあったチームでした。

 

1次予選は6グループに分かれ、各組1位が最終予選に進むというレギュレーションでした。

 

日本は1次予選で北朝鮮、インドネシア、香港と同組になります。

 

香港、インドネシアとのアウェー戦をスコアレスドローで終え、北朝鮮とインドネシア相手のホーム戦も勝利。

 

その後ホームの香港戦で引き分け、最終節は北朝鮮とのアウェー決戦に臨みます。

 

ここで勝利できれば最終予選進出だったのですが、0−2と敗れて1次予選で敗退決定となりました。