W杯を振り返るシリーズ1 1930年第1回ウルグアイFIFAワールドカップ 〜W杯の幕開け〜

W杯を振り返るシリーズ1 1930年第1回ウルグアイFIFAワールドカップ 〜W杯の幕開け〜

1904年5月21日、パリでフランス、オランダ、スイス、デンマーク、ベルギー、スウェーデン、スペインの7か国が集まり、世界のサッカー統括組織設立の会議が開催されました。

 

そして会議の結果、「国際サッカー連盟(略称:FIFA)」の設立が決定。

 

FIFA創立時の要綱には世界選手権を行う旨が記載されており、その要項に基づいて1921年に第3代FIFA会長に就任したフランス人のジュール・リメは、同じくフランス人の側近のアンリ・ドロネー事務総長とともに、就任直後からサッカー単独の世界大会実現のために活動を始めました。

 

しかし当時は、第一次世界大戦後の経済的混乱、大陸間の移動手段が船だったことによる交通難、そして世界大会はオリンピックがすでに存在していることを理由に、各国はサッカー単独の世界大会開催を渋っていました。

 

そんな状況の中、ウルグアイが1924年パリ五輪、1928年アムステルダム五輪と五輪連覇を達成します。

 

そこでリメらは、「ウルグアイの五輪連覇は、アマチュアしか出られない世界大会だったから。アマチュアだけの五輪には、プロ化した各国は優れた選手を送り込めない。アマ、プロの関係なく、真の世界王者を決める大会の開催を」と特に欧州諸国に訴え、ついにサッカー単独の世界大会開催が動き出します。

 

 

1928年に行われたFIFAのアムステルダム総会において大会名称を「ワールドカップ」とすることが決定。

 

開催候補国にはウルグアイ、ハンガリー、イタリア、オランダ、スペイン、スウェーデンの6カ国が名乗りを挙げました。

 

ウルグアイは、建国100周年の記念として近代的なスタジアム建設と参加国の全招待などを約束。

 

また1924年、1928年とオリンピック連覇という実力をアピールし、他国はウルグアイを支持して辞退。

 

1929年5月18日にバルセロナでFIFAの会合が開かれ、ウルグアイは無投票で開催国に選ばれました。

 

 

第1回FIFAワールドカップは、出場権を賭けての地区予選は行われず、全てのチームは招待されて参加。

 

ウルグアイまでは船での長旅のため、ほとんどのヨーロッパのチームが出場を辞退し、開催2ヶ月前の時点でユーラシア大陸からの参加チームは1つもありませんでした。

 

そこで当時のジュール・リメが参加を呼びかけた結果、ベルギー、フランス、ルーマニア、ユーゴスラビアの4カ国(すべて当時のフランスの同盟国)が参加を表明します。

 

また日本も招待されていましたが、当時の日本国内が1927年の昭和金融恐慌以来慢性的な不況であったため、財政難により参加を辞退します。

 

最終的に出場国は以下の13カ国となりました。

 

 

南米:ウルグアイ、ブラジル、アルゼンチン、チリ、パラグアイ、ペルー、ボリビア

 

ヨーロッパ:フランス、ユーゴスラビア、ベルギー、ルーマニア

 

北中米:アメリカ、メキシコ

 

 

グループリーグは13カ国が4つのグループに分かれ、各組1位が準決勝に進むというレギュレーションで行われました。

 

開幕戦は1930年7月13日のフランス対メキシコ。フランスが4-1で勝利します。記念すべき初得点はフランス代表のリュシアン・ローランでした。

 

またアメリカ代表のバート・パテナウデがアメリカ対パラグアイ戦で初のハットトリックを記録します。

 

グループを1位で通過したアルゼンチン、ユーゴスラビア、ウルグアイ、アメリカの4カ国が準決勝に進出。

 

準決勝はアルゼンチン6-1アメリカ、ウルグアイ6-1ユーゴスラビアという結果で、アルゼンチンとウルグアイが決勝へ進出。

 

この大会は3位決定戦はありませんでした。

 

 

そして7月30日にモンテビデオのエスタディオ・センテナリオで決勝戦が行われ、ウルグアイが4-2でアルゼンチンに勝利。

 

見事に初代優勝国に輝き、会長のジュール・リメから優勝杯を受け取りました。

 

そして後にリメの功績をたたえて優勝杯は、ジュール・リメ杯と呼ばれるようになります。

 

ちなみに今大会は全18試合で引き分けが一つもなかったというW杯における唯一の記録が残されています。

 

初代得点王は8ゴールを決めたアルゼンチンのギジェルモ・スタービレでした。