W杯を振り返るシリーズ4 1950年第4回ブラジルFIFAワールドカップ 〜マラカナンの悲劇〜
ブラジルは1942年のFIFAワールドカップに立候補していましたが、第二次世界大戦勃発により開催中止となりました。
そしてヨーロッパの大部分が未だに復興途上であったため、戦後改めてブラジルが無投票で開催国に選ばれました。
しかし当初は16カ国の参加が予定されていましたが、辞退国が相次ぎます。
アジアからは他に参加希望国が無かったため、予選無しでインドが出場することになっていましたが、裸足での試合参加をFIFAに拒否されたという理由で、大会直前に参加を辞退したため、結果的にアジアからの本大会参加国はゼロとなりました。
南米も、ブラジルサッカー協会との間に問題を抱えていたアルゼンチンサッカー協会が同国代表の参加を拒否、他にもエクアドルとペルーが参加を拒否したため、ウルグアイ、チリ、パラグアイ、ボリビアの4か国が予選なしで自動的に参加決定となります。
ソ連も予選参加を辞退したため、共産主義政権下に入った東ヨーロッパ各国も同調して参加を拒否。
さらにヨーロッパの予選通過国の中からもスコットランドとトルコが辞退を表明しました。
インド、スコットランド、トルコが辞退したため、FIFAは欧州予選で出場国に次ぐ成績を上げていたフランス・ポルトガル・アイルランドに対して補充参加を要請したものの、南米への交通難などもあり、辞退。
結局13カ国で本大会が行われることとなりました。
この大会は唯一、決勝ラウンドもリーグ戦で開催されます。
優勝候補は直前の強化試合でヨーロッパ選抜チームに対して圧勝していたイングランド。
元々イングランドはFIFAより歴史の古いFA(フットボール・アソシエーション)があり、FIFAとの関係が悪かったため、これまでW杯には参加していませんでした。
その後関係が改善されて、今大会がようやく初出場。戦後の成績は23勝4敗3分と圧倒的な戦績でした。
しかし1次リーグの2戦目でアメリカ合衆国に1対0で敗れると、続くスペイン戦にも1対0で敗れ、グループリーグで姿を消します。
アメリカへの敗北は当時のイギリスでは考えられないことであり、新聞に結果が記載されると、印刷ミスであるとして新聞社に抗議の電話が殺到したそうです。
この試合はベロオリゾンテの奇跡と呼ばれ、W杯史上最大級の番狂わせと言われています。
一方この出来事はイングランドサッカー史上最大の恥と称され、試合で着用していた青色のユニフォームはその後二度とイングランド代表で使用されることはありませんでした。
イングランドと並ぶ優勝候補と言われていたのが開催国のブラジル。
グループリーグを2勝1分と安定した成績で通過します。
決勝リーグは各組を1位で通過したブラジル、スペイン、スウェーデン、ウルグアイの4カ国で争われました。
ブラジルはスウェーデンを7-1、スペインを6-1の大差で破り、最終戦引き分け以上で優勝という状況。
対するウルグアイはスウェーデンには勝ったもののスペインには引き分け、1勝1分。
ブラジルの優勝は確実と会場エスタジオ・ド・マラカナンに集まった199,854人の地元ファンは誰もが信じていました。
そして後半開始2分にフリアカのゴールでブラジルが先制。このままブラジルの優勝は決まりだろうと思われました。
しかし、この時ウルグアイのキャプテンであるオブドゥリオ・バレラはチームに「勝つときが来た」と声を掛けたといいます。
その後、ウルグアイは後半21分にスキアフィーノが同点ゴール、後半34分にギジャが逆転ゴールを決め、ウルグアイが2回目の優勝を達成しました。
ブラジルのまさかの敗戦に会場は静まり返り、自殺を図る者まで現れました。
2人がその場で自殺し、2人がショック死、20人以上が失神しブラジルサッカー史上最大の悲劇と呼ばれ、この試合はマラカナンの悲劇と呼ばれました。
この事件を忘れるためブラジル代表はその後ユニフォームを黄色に変更し、以後、この試合で着用した白いユニフォームの着用を避けるようになりました。
なお当時9歳だったペレがこの試合後落ち込んでいた父親を「悲しまないで。いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげるから」と励ましたというエピソードが知られています。
3位になったのはグループリーグで1勝2敗で3位に入ったスウェーデン。
大会得点王は8ゴールを挙げたブラジルのアデミールでした。
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